側用人 (そばようにん)
【概説】
江戸幕府において、将軍の側近として将軍と老中の間の連絡や命令の取次ぎを担った役職。5代将軍徳川綱吉の時代に、将軍権力を強化する目的で創設された。本来は単なる連絡役であったが、将軍の威光を背景にして次第に老中を凌ぐ強大な権力を握るようになり、「側近政治(側用人政治)」と呼ばれる一時代を築いた。
側用人創設の背景と目的
江戸幕府の政治体制は、初期には将軍個人のカリスマ性が強く反映されていたが、4代将軍徳川家綱の時代頃から、譜代大名を中心とする老中らの合議制によって幕政が運営されるようになっていた。しかし、5代将軍徳川綱吉はこうした老中主導の政治を嫌い、将軍親政への回帰と権力の絶対化を志向した。
綱吉は、将軍の日常生活の場であり政務をとる「中奥」に出入りでき、自身と直接接することができる側近を重用するようになる。こうして1681年(天和元年)、綱吉の館林藩主時代からの家臣である牧野成貞が任命されたのが、側用人制度の始まりとされている。従来の門閥にとらわれず、将軍個人の信任に基づく能力主義的な人材登用を行うための装置としての側面を持っていた。
役職の性質と権力の肥大化
側用人の本来の職務は、将軍の命令を老中に伝え、老中からの上申を将軍に取り次ぐことであった。幕府の職制における格式としては老中に次ぎ、若年寄の上位に位置づけられていた。しかし、将軍の権威が高まり、将軍と老中が直接面会する機会が限定されていくなかで、情報と意思決定の出入り口を独占する側用人の存在意義は極めて大きなものとなった。
側用人は、将軍の言葉を老中に伝える際に自身の解釈を加えたり、老中からの不都合な意見を将軍に届く前に握り潰したりすることが事実上可能であった。このように、将軍の絶大な威光を背に受けることで、実質的に国政の最高意思決定を左右するようになり、本来の最高権力機関である老中をも凌駕する権力を手中に収めていったのである。
柳沢吉保と「側用人政治」の最盛期
側用人の権力が最も顕著に現れたのが、綱吉の寵臣である柳沢吉保の時代である。小姓から異例の出世を遂げた吉保は、大老格にまで昇り詰め、幕政を実質的に主導した。続く6代将軍家宣、7代将軍家継の時代にも、側用人である間部詮房が学者・新井白石とともに幕政を牽引した(正徳の治)。この綱吉から家継にかけての時代における政治体制は、歴史学において「側用人政治」と称されている。将軍の専制を補完する機能として有効に働いた一方で、伝統的な権力を持つ譜代大名らの強い反発と不満を招くこととなった。
享保の改革における変容とその後
8代将軍徳川吉宗は、紀州藩から将軍家に迎えられると、譜代大名との関係修復と将軍親政の確立を目指し、幕政改革(享保の改革)に乗り出した。吉宗は側用人を廃止(あるいは規模を縮小して御側御用取次へ移行)し、将軍と老中が直接対話して政務を行う伝統的な方式を復活させた。これにより、側用人を通じた側近政治は一時的に終焉を迎えた。
しかし、9代将軍家重の時代には、言語不明瞭であった将軍の言葉を唯一理解できたとされる大岡忠光が側用人として復権し、再び権勢を振るった。また、10代将軍家治の時代には、田沼意次が側用人から老中へと昇格し、側近から国政の最高責任者へと上り詰めるという異例の事態が生じた。このように側用人は、将軍個人の資質や当時の政治状況によってその役割や権力が大きく変動しながらも、幕末に至るまで江戸幕府の政治構造において極めて重要な鍵を握る役職であり続けた。