荻原重秀 (おぎわらしげひで)
【概説】
江戸時代前期から中期にかけての幕臣であり、5代将軍徳川綱吉の治世下で勘定吟味役、のちに勘定奉行として幕府財政を主導した人物。深刻化する幕府の財政難を打開するため、金銀の含有量を減らした貨幣への改鋳(元禄金銀)を断行したことで知られる。後世の儒学者からは悪政として批判されたが、現代では通貨供給量を調整した先駆的な経済政策として高く評価されている。
幕府財政の悪化と勘定方への抜擢
荻原重秀は、幕府の御家人出身として1658(万治元)年に生まれた。天和年間に勘定方に出仕した当時、幕府財政は大きな転換期を迎えていた。江戸時代初期から蓄積されてきた金銀は底をつき、明暦の大火からの復興費用や、5代将軍徳川綱吉による大規模な寺社造営、さらに「生類憐れみの令」に伴う巨大な犬小屋(中野犬小屋など)の建設・維持費などが重なり、支出が急増していたのである。この財政的な危機状況下において、類まれな実務能力と財務の才を持っていた重秀は、綱吉の側用人である柳沢吉保らの信任も得て異例の出世を遂げ、1687(貞享4)年に勘定吟味役に抜擢され、財政再建の重任を託されることとなった。
元禄の貨幣改鋳とマクロ経済への影響
重秀の最大の功績にして、歴史的論争の的となってきたのが、1695(元禄8)年に断行された貨幣改鋳である。重秀は、家康以来の良質な慶長金銀を回収し、金や銀の含有率(品位)を意図的に引き下げた元禄金銀を新たに発行した。この新旧貨幣を交換する際に生じた莫大な差益(出目)を幕府の収入として組み入れることで、当時の財政赤字を一気に解消することに成功した。
新井白石をはじめとする後世の儒学者たちは、これを「悪貨を乱発して物価高騰(インフレーション)を招いた」として厳しく批判した。しかし、現代の経済史的観点からは、重秀の政策は再評価されている。当時の日本経済は、商品作物の流通や都市の発展により著しい経済成長を遂げていたにもかかわらず、貨幣の絶対量が不足しデフレ傾向にあった。重秀の改鋳は、結果として通貨供給量(マネーサプライ)を増大させ、経済活動を大きく刺激した。この貨幣増発による好景気こそが、町人文化が華開いた「元禄文化」の繁栄を経済的な側面から支える原動力となったのである。新井白石の著書『折たく柴の記』には、重秀が「貨幣は国家が造るものであり、たとえ瓦礫であっても通用させることができる」と豪語したと記されており、彼が貨幣の価値が金属の含有量ではなく「国家の信用に基づく名目価値」であることを深く理解していたことが窺える。
宝永の改鋳と新井白石による弾劾
元禄の改鋳以降も、重秀は勘定奉行として絶大な権勢を振るい、長崎貿易における金銀流出を防ぐための定高貿易法の導入や、諸国への検地(元禄の地方直し)の実施など、次々と増収策を打ち出した。しかし、1707(宝永4)年の富士山の宝永大噴火などの未曾有の自然災害による復興費や、将軍代替わりの出費により幕府財政は再び逼迫した。これに対し、重秀はさらに品位を下げた宝永金銀への改鋳を繰り返したが、度重なる改鋳はついに急激なインフレーションを引き起こし、庶民の生活を圧迫することとなった。
6代将軍徳川家宣の時代(正徳の治)に入ると、儒教的理想主義を掲げて将軍の侍講となった新井白石が、物価高騰の元凶として重秀を激しく弾劾した。白石は幾度も重秀の罷免を家宣に要求し、ついに1712(正徳2)年、重秀は勘定奉行を解任された。その翌年、失意のうちに病死を遂げる。長らく白石の記述により「私腹を肥やした奸臣」というレッテルを貼られてきた重秀だが、貨幣経済の本質を見抜き、積極財政によって国家の危機を乗り越えようとしたその手腕は、江戸時代における最も優秀な経済官僚の一人として現代の歴史学で高く評価されている。