和気清麻呂

高校日本史的重要度
★★★

和気清麻呂 (わけのきよまろ)

733年〜799年

【概説】
称徳天皇の命で宇佐八幡宮へ赴き、僧・道鏡を天皇にしてはならないという神託を持ち帰った奈良時代から平安時代初期の官人。皇統の断絶を防いだ忠臣として知られるのみならず、後年には平安遷都の推進や治水事業にも尽力し、実務官僚として大きな功績を残した。

道鏡の台頭と宇佐八幡宮神託事件

奈良時代後期、時の称徳天皇(孝謙上皇重祚)は、自らの看病にあたった僧の道鏡を深く信任し、彼を太政大臣禅師、さらには法王という仏教界および政界の最高位にまで引き上げた。この道鏡の権力掌握を背景に、神護景雲3年(769年)、「道鏡を皇位に就かせれば天下は太平になる」という宇佐八幡宮(現在の宇佐神宮)の神託が奏上される事件が起きる。いわゆる宇佐八幡宮神託事件である。

皇族ではない一介の僧侶に皇位を譲ろうとする前代未聞の事態に対し、朝廷内には動揺が走った。称徳天皇は神託の真偽を確かめるため、側近の尼僧・和気広虫(清麻呂の姉)に勅使として赴くよう命じたが、広虫は虚弱であったため、代わりに弟の和気清麻呂宇佐八幡宮へ派遣されることとなった。

真の神託の奏上と大隅国への流罪

宇佐へ赴いた清麻呂は、神前で祈願を行い、「我が国は開闢以来、君臣の分は定まっている。臣下をもって君主とすることは未だかつてない。皇嗣には必ず皇族を立てよ。無道の者は早く掃討せよ」という、道鏡の即位を明確に拒絶する真の神託を受け取った。清麻呂はこれを平城京へ持ち帰り、天皇と道鏡の面前で毅然として報告した。

自らの野望を打ち砕かれた道鏡と、その意に反する報告を受けた称徳天皇は激怒した。清麻呂は官位を剥奪された上で、名前を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という屈辱的な名に改めさせられ、大隅国(現在の鹿児島県)への流罪に処された。また、姉の広虫も「狭虫(さむし)」と改名させられ備後国へと配流された。しかし、清麻呂の決死の報告により、道鏡の皇位簒奪は未然に防がれ、天皇家以外の者が天皇になるという未曾有の危機は回避されたのである。

政界への復権と平安遷都の建議

配流からわずか1年後の神護景雲4年(770年)、称徳天皇が崩御すると事態は一変する。強力な後ろ盾を失った道鏡は下野国(現在の栃木県)の薬師寺へと左遷され、代わって天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位した。これにより清麻呂は直ちに平城京へ呼び戻され、本位に復して政界への復帰を果たした。

その後、光仁天皇の次代である桓武天皇の治世において、清麻呂は実務官僚としてその才能を遺憾なく発揮する。とりわけ歴史的に重要な功績が、平安京への遷都の建議である。桓武天皇仏教勢力の影響が強い平城京を離れて長岡京へ遷都していたが、身内の不幸や天災が相次ぎ、造営は暗礁に乗り上げていた。そこで清麻呂は、水陸の交通の便が良く、風水学的な四神相応の地でもある山背国の葛野(現在の京都市)への再遷都を進言した。延暦13年(794年)の平安遷都後、清麻呂は造宮大夫として新都の建設を指揮し、新しい時代の幕開けを牽引した。

実務官僚(テクノクラート)としての晩年

清麻呂の事績は遷都政策のみに留まらない。摂津国の神崎川と淀川を結ぶ運河の開削や、備前国での治水・開墾事業など、土木・水利事業においても手腕を振るい、民衆の生活向上や国家のインフラ整備に多大な貢献をした。また、私財を投じて高雄山寺(後の神護寺の前身)を建立するなど、国家仏教の刷新にも関与した。

皇位の危機を救った「忠臣」としての顔が後世の歴史教育(特に戦前の皇国史観)において過度に強調されがちな和気清麻呂であるが、その本質は、時代の転換期にあって困難な国家事業を推し進めた、極めて優秀なテクノクラート(技術官僚)であったといえる。

最終更新:
2026年6月24日 @ 10:16

日本史一問一答(ランダム)

Q. 古文辞学を創始して江戸に蘐園塾を開き、8代将軍吉宗に『政談』を著して政治改革を提言した儒学者は誰か。
Q. 藤原頼通が、父・道長から譲り受けた宇治の別荘を寺院に改め、阿弥陀堂などを建立した寺院は何か。
Q. 徳川光圀の援助で『万葉代匠記』を著し、歴史的仮名遣いの研究など実証的な古典研究(国学)の基礎を築いた僧は誰か。