桓武天皇 (かんむてんのう)
【概説】
光仁天皇の皇子であり、奈良時代末期の政治的混乱を刷新して平安時代の基礎を築いた第50代天皇。長岡京や平安京への遷都、軍団の廃止と健児の制の導入、大規模な蝦夷征討などを実行し、形骸化しつつあった律令国家の再建を強力に推し進めた。晩年には「徳政相論」によって主要事業を中止するなど、実情に即した柔軟な政治的決断も下した。
天智天皇系への皇統転換と即位
桓武天皇は即位前を山部親王(やまべのしんのう)といい、天智天皇の孫である白壁王(のちの光仁天皇)と、百済系渡来人の血を引く高野新笠との間に生まれた。奈良時代の皇統は長らく天武天皇の血統で占められていたが、称徳天皇が後継者を残さずに崩御したことで天武系の血統が断絶し、藤原百川らの推挙によって白壁王が光仁天皇として即位した。これにより皇統は天智天皇系へと移行した。
しかし、母の身分が低かった山部親王は本来皇位継承の有力候補ではなかった。当初は異母兄弟である他戸親王が立太子されたが、藤原百川らの政争によって他戸親王とその母・井上内親王が排斥されたことで、山部親王が皇太子となり、781年に即位して桓武天皇となった。この即位には藤原式家の強力な後ろ盾があり、天皇は専制的な権力を確立していくこととなる。
南都仏教からの脱却と二度の遷都
桓武天皇の最大の事業の一つが、平城京から新都への遷都である。奈良時代を通じて、道鏡の台頭に象徴されるように、南都六宗などの大寺院が政治に深く介入し、律令国家の財政や統治を圧迫していた。天皇はこれら旧仏教勢力との決別と、天武系から天智系への王朝交替を天下に示すため、784年に山背国の長岡京へと遷都を断行した。
ところが、長岡京の造営は困難を極めた。785年には造営責任者であった藤原種継が暗殺され、天皇の実弟である皇太子・早良親王が事件への関与を疑われて配流の途中で憤死するという事件が起きた。その後、天皇の近親者の死や疫病、水害が相次ぎ、これを早良親王の怨霊の祟りであると恐れた桓武天皇は、和気清麻呂の建言を容れ、794年に再び山背国の葛野へと遷都を行った。これが約400年続く平安時代の舞台となる平安京である。
律令支配の再編と地方政治の立て直し
桓武天皇は、制度的疲労を起こしていた律令制を時代に合わせて修正し、実質的な支配体制の立て直し(徳政)を図った。地方行政においては、国司の交替時に前任者から後任者へ渡される解由状の審査を厳格化するため、新たに勘解由使(かげゆし)という令外官を設置し、地方官の不正を厳しく取り締まった。
また、民衆の負担軽減にも着手した。農民に強制的に稲を貸し付けて利息を徴収する公出挙(くすいこ)の利息を5割から3割に引き下げ、年間60日であった雑徭(地方長官の下での労役)を半減の30日とした。さらに、戸籍に基づく班田収授の実施が困難になっていた実情を踏まえ、班田の期間を従来の「6年に1度」から「12年に1度(一紀一班)」へと緩和した。これらの政策は、逃亡や偽籍が相次いでいた農民を土地に定着させ、国家財政を安定させるための現実的な対応であった。
健児の制と蝦夷征討
律令制における兵役(軍団)は農民にとって極めて重い負担であり、同時に軍兵の質の低下が著しかった。そこで桓武天皇は792年、辺境の陸奥・出羽・佐渡・西海道などを除く諸国の軍団を廃止し、代わりに郡司の子弟や弓馬に長けた富裕な農民から志願兵を募る健児(こんでい)の制を導入した。これにより、農民を兵役から解放して農業生産に専念させるとともに、少数精鋭による治安維持体制への転換を図った。
一方で、東北地方に勢力を持つ蝦夷(えみし)に対しては、国家の威信をかけて大規模な軍事行動(征夷)を繰り返した。紀古佐美などを派遣したが蝦夷の激しい抵抗に遭い、特に族長のアテルイらの巧みな戦術の前に大敗を喫することもあった。そこで天皇は、優れた武将である坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した。田村麻呂は802年に胆沢城を築き、ついにアテルイを帰順させることに成功し、律令国家の支配領域を大きく北へと拡大させた。
徳政相論と二大事業の終焉
桓武天皇の治世を象徴する蝦夷征討(軍事)と平安京造営(造作)は、国家の威信を高めた一方で、民衆には兵役や労役、多大な税負担を強いることとなった。晩年の805年、天皇は重臣たちを集めて現在の政治的課題について議論させた。これが徳政相論である。
この席上で、藤原緒嗣は「天下の民が苦しんでいるのは軍事と造作の二つである」と直言し、両事業の即時中止を訴えた。これに対し、事業の継続を主張する菅野真道と激しい論争になったが、桓武天皇は緒嗣の意見を採用し、長年情熱を注いだ蝦夷征討と平安京造営の中止を決断した。この決断は、律令制の建前よりも民衆の生活安定を優先した現実主義的な措置であり、強力な専制君主であった天皇が自らの限界を悟り、次の時代に向けて政治のあり方を転換させた象徴的な出来事として高く評価されている。