重祚
【概説】
一度退位した(譲位した)天皇が、再び天皇の位に就くこと。日本の歴代天皇のうち、飛鳥時代の皇極天皇(斉明天皇として重祚)と、奈良時代の孝謙天皇(称徳天皇として重祚)の2例のみに見られる極めて特異な皇位継承形式。
重祚が発生した歴史的背景
古代の日本においては、後世のような長子相続や「父から子へ」といった皇位継承の明確なルールがまだ確立されていなかった。皇位の決定には、血統の尊さだけでなく本人の政治的器量や、群臣(有力豪族や貴族)の合意、さらに周囲の政治的勢力バランスが大きく影響していた。このような過渡期において、皇位継承をめぐる不必要な流血の惨事を回避し、王権の分裂を防ぐための極めて政治的な手段として用いられたのが重祚である。
また、日本史上における重祚の2例がいずれも女性天皇(女帝)によって行われている点は重要である。古代の女帝は、有力な男性皇族(主に皇太子)への「中継ぎ(ワンポイントリリーフ)」としての役割を期待されて即位することが多かった。次代の有力候補がまだ幼少であったり、政治的対立により即座の即位が困難であったりする場合に、すでに即位実績があり王権の正統性を体現している前天皇(上皇)が再登板することで、政情の安定化が図られたのである。
皇極天皇から斉明天皇へ:初の重祚(飛鳥時代)
史上最初の重祚は、655年に行われた皇極天皇から斉明天皇への交代である。皇極天皇は、645年の乙巳の変(中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺したクーデター)の直後に譲位し、孝徳天皇が即位した。しかし、新政を進めるなかで孝徳天皇と皇太子となった中大兄皇子との間で政治的主導権をめぐる対立が生じ、孝徳天皇は実権を失ったまま難波宮で崩御してしまう。
この事態に際し、中大兄皇子は自ら即位することを避けた。いまだ政敵の残党や皇位継承のライバル(有間皇子など)が存在する不安定な政情下で、自らが即位することによる摩擦を避けるためである。そこで中大兄皇子は、自らの母であり、かつて天皇であった皇極上皇を再び即位(斉明天皇)させる道を選んだ。この重祚により、実質的な最高権力者である中大兄皇子が実務をとり、斉明天皇が王権の象徴として君臨する共同統治体制が形成され、大化の改新以降の改革が継続された。
孝謙天皇から称徳天皇へ:権力闘争の帰結(奈良時代)
2例目にして日本史上最後の重祚は、764年の孝謙天皇による重祚(称徳天皇)である。聖武天皇の娘であった孝謙天皇は、譲位して孝謙上皇となり、淳仁天皇が即位した。しかし、淳仁天皇を擁立して政権を握った藤原仲麻呂(恵美押勝)と、病気平癒を契機に僧の道鏡を深く信任するようになった孝謙上皇との間で、主導権をめぐる対立が激化した。
この「上皇」と「天皇・大師(仲麻呂)」による二重権力の対立は、764年の藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)という武力衝突へと発展する。この反乱を軍事力で鎮圧した孝謙上皇は、淳仁天皇を廃位して淡路国に配流し、自ら称徳天皇として再び即位(重祚)した。斉明天皇の重祚が平和的な「中継ぎ」であったのに対し、称徳天皇の重祚は、退位した上皇が現職の天皇を武力で打倒し、自ら皇位を奪還するという激しい政治闘争の帰結であった点に特徴がある。こののち、称徳天皇のもとで道鏡が政治の実権を握り、宇佐八幡宮神託事件へと至る緊迫した政治状況が生み出されることとなった。