阿倍内麻呂

重要度
★★

【参考リンク】
阿倍内麻呂(Wikipedia)

阿倍内麻呂 (あべのうちまろ)

生年不詳〜649年

【概説】
飛鳥時代の有力豪族で、大化の改新期に活躍した政治家。645年の乙巳の変ののちに発足した孝徳新政権において、初代の左大臣に任命された人物。新政権の最高執政官として、天皇中心の中央集権国家形成に向けた初期の改革を支えた。

乙巳の変と「左大臣」起用の背景

645年(大化元年)の乙巳の変によって蘇我本宗家が滅亡すると、中大兄皇子や中臣鎌足らは孝徳天皇を擁立し、日本史上初となる元号「大化」を定めて革新政治をスタートさせた。この新政権において、政治の実務を統括する最高官職として新設されたのが左大臣右大臣である。その記念すべき初代左大臣に起用されたのが、阿倍氏の首長であった阿倍内麻呂(阿部内麻呂とも表記)であった。なお、右大臣には蘇我氏分家の蘇我石川麻呂が就任している。

阿倍氏は大和盆地を本拠地とし、早くから王権と結びついて外交や軍事で活躍した伝統的な有力豪族(臣姓)である。蘇我氏という強大な専制勢力が排除された直後の不安定な政情において、伝統的豪族の代表格である内麻呂を政権トップの左大臣に据えたことは、旧来の豪族層を新政権に引き入れ、政治的動揺を抑えるための融和政策として極めて重要な意味を持っていた。

大化の改新における政治的役割

左大臣となった内麻呂は、右大臣の蘇我石川麻呂や、国博士に任じられた高向玄理・僧旻らとともに、新政権の基本方針である改新の詔(646年発布)の作成や、それに基づく官制改革を推進した。具体的には、従来の豪族による私地私民支配を否定する公地公民制への移行や、国郡制度の原型となる地方行政制度の整備など、律令国家の土台となる改革の実務を主導したとされる。

また、仏教を保護・統制するための「十師」の制度が整えられると、内麻呂は四天王寺の大寺司に任じられるなど、国家による仏教管理の推進役も担った。このように彼は、急進的な改革を目指す中大兄皇子ら皇族・知識人と、保守的な旧豪族層との間に立ち、政治的妥協を図りながら改革を現実のものとしていく極めて重要な調整弁としての役割を果たした。

内麻呂の死と改新政権の推移

649年(大化5年)3月、阿倍内麻呂は現職の左大臣のまま病死した。『日本書紀』によれば、その死を悼んだ孝徳天皇や中大兄皇子は朱雀門に赴いて哀哭し、百官(役人たち)に葬儀への参列を義務付けたとされ、彼の存在が政権においていかに大きかったかがうかがえる。

しかし、政権の重鎮であった内麻呂の死は、新政権内の権力バランスを大きく崩す契機となった。内麻呂の死からわずか数日後、右大臣であった蘇我石川麻呂が謀反の疑いをかけられ、山田寺で自殺に追い込まれる事件(山田寺の悲劇)が発生する。これにより、新政権を支えていた左右の大臣が同時に失われることとなり、政治の主導権は中大兄皇子(のちの天智天皇)へと急速に集中していくこととなった。

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