由利公正 (ゆりきみまさ)
【概説】
幕末の越前福井藩士であり、明治初期の新政府で活躍した政治家。新政府の基本方針となった「五箇条の誓文」の原案である「議事之体大意」を起草した人物。また、初期新政府の財政政策を主導し、日本初の全国通用紙幣である太政官札の発行などを行ったことで知られる。
越前藩での財政改革と坂本龍馬との邂逅
由利公正は、旧名を三岡八郎といい、福井藩主・松平慶永(春嶽)に見出されて藩政改革に参画した。挙藩一致の改革を進めるなかで、横井小楠の思想に影響を受け、産業振興や藩札の整理などで優れた財政手腕を発揮した。この実績が、幕末の志士たち、特に土佐藩の坂本龍馬に高く評価されることとなる。龍馬は新政府の構想(「船中八策」など)を練る際、新国家の財政担当者には三岡八郎(由利)をおいて他にいないと主張し、福井まで足を運んで彼と日本の将来や経済政策について熱く議論を交わしたという。
「五箇条の誓文」の起草と太政官札の発行
明治維新が成ると、由利は新政府の参与に任じられ、金融・財政政策を担当した。彼が歴史上果たした最も大きな役割の一つが、1868年(明治元年)に発布された「五箇条の誓文」の起草である。由利が作成した最初の草案「議事之体大意」は、庶民の意思の尊重や海外との交易推進など、福井藩での改革経験に基づいた先進的な内容を含んでいた。この原案が土佐藩の福岡孝弟、長州藩の木戸孝允によって修正され、最終的な「五箇条の誓文」へと結実した。
財政面においては、戊辰戦争の戦費調達と新国家の資金不足を解消するため、由利の発案によって日本初の全国統一金札(不換紙幣)である太政官札が発行された。しかし、正貨(金や銀)の裏付けがないまま大量に発行されたため、市場で激しいインフレを引き起こし、信用は失墜した。この財政混乱の責任を追及される形で、由利は不名誉な形で新政府の財政担当から退くこととなった(後任は大隈重信ら)。
東京府知事としての都市計画と自由民権運動への参画
新政府の財政担当を免官された由利であったが、1871年には東京府知事(第2代)に就任した。1872年の大火で焼失した丸の内や築地一帯の復興にあたり、由利は「銀座煉瓦街」の建設を推進した。これは、道路の拡幅や耐火建築の導入による近代都市・東京の基盤づくりに大きく貢献する業績となった。
その後、官を辞した由利は、板垣退助や後藤象二郎らとともに、1874年に民撰議院設立建白書を左院に提出した。これは「五箇条の誓文」の第一条である「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という精神を体現しようとする試みであり、日本の自由民権運動の端緒を開く象徴的な出来事となった。晩年は元老院議官や貴族院議員を歴任し、近代日本の形成を温かく見守りながらその生涯を閉じた。