斉明天皇

重要度
★★

【参考リンク】
斉明天皇(Wikipedia)

斉明天皇 (さいめいてんのう)

594年〜661年

【概説】
飛鳥時代の第37代天皇であり、日本史上初めて重祚(再即位)を行った女帝。前代の孝徳天皇の崩御後、皇極天皇が再び即位して斉明天皇となり、中大兄皇子とともに大化の改新後の政治を主導した。晩年は百済復興を支援するために筑紫へ出兵したが、現地で病死した。

初の「重祚」と政局の安定化

斉明天皇は、第35代皇極天皇として一度即位していたが、645年の乙巳の変(蘇我氏打倒)を機に中大兄皇子(天智天皇)らに皇位を譲り、弟の孝徳天皇が即位した。しかし、孝徳朝において難波遷都をめぐり孝徳天皇と中大兄皇子との間で政治的主導権の対立が激化。天皇が難波宮に取り残されたまま崩御すると、皇位継承をめぐる混乱を避けるため、655年に飛鳥板蓋宮で再び皇位に就いた。これが日本史上初の重祚(じゅうそ)である。

重祚という変則的な手段がとられた背景には、中大兄皇子が直ちに即位することへの政治的反発(孝徳天皇の遺子である有間皇子を支持する勢力などへの配慮)を和らげる目的があったとされる。斉明朝の実質的な政治主導権は皇太子となった中大兄皇子が握っていたが、天皇の存在は王統の正統性と政権の安定性を維持するために不可欠であった。

大規模な土木事業と天皇権威の誇示

斉明天皇の治世は、大規模な土木事業が相次いで行われたことで知られる。『日本書紀』には、香久山の西から石上山まで運河を掘削したことが記されており、この過酷な労役に対して民衆から「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」と非難を浴びた様子が描かれている。また、飛鳥の各地に巨大な石造物を配置した「両槻宮(ふたつきのみや)」の建設など、多大な人員と費用を投じた事業が強行された。

これらの土木事業は、単なる奢侈や浪費ではなく、豪族たちの労働力を動員することで王権の絶対的な支配力を国内外に誇示するとともに、渡来系の先進的な技術を用いた道教的・仏教的な儀礼空間を創出する意図があったと研究されている。しかし、この強硬な政策は豪族や民衆の疲弊を招き、後の政治的不安の背景ともなった。

東アジアの動乱と筑紫への親征

斉明朝の後半期は、朝鮮半島を中心とする東アジアの国際情勢が激変した時期であった。660年、唐と新羅の連合軍によって倭国(日本)の同盟国であった百済が滅亡した。百済の遺臣(鬼室福信ら)は、倭国に人質として滞在していた百済の皇子・豊璋の帰国と、百済再興のための軍事支援を要請した。

斉明天皇と中大兄皇子はこの要請を受け入れ、国家の総力を挙げた救援軍の派遣を決定した。661年、斉明天皇は自ら軍を率いて西下し、瀬戸内海を渡って筑紫(九州)の朝倉宮(あさくらのみや)へと本営を移した。しかし、現地で戦争の本格化を前にして病に倒れ、同地で崩御した。天皇の急死後、中大兄皇子は即位式を行わずに政務を執る「称制(しょうせい)」の形で百済救援事業を継続し、倭国は未曾有の大戦である白村江の戦いへと突き進むこととなる。

古代の天皇制 (岩波現代文庫 学術494)

天皇の起源から変遷までを古代史の視点で丁寧に読み解き、日本における王権のあり方を根底から問い直す一冊。

日本古代の王権と祭祀 (歴史学選書 7)

神聖な儀礼や祭祀の側面から古代王権の構造を浮き彫りにし、政治的権威の正統性を考察する学術的な書。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 氏姓制度において、同じ祖先を持つという意識のもとに結合し、ヤマト政権の職務を世襲した豪族の集団を何というか?
A.
Q. 東漢氏や西文氏などに率いられ、ヤマト政権において漢字を用いて記録や文書作成の実務を担当した部民の集団は何か?
Q. 聖徳太子の母の御所を寺にしたと伝えられ、法隆寺の東院伽藍に隣接している尼寺はどこか?