上皇(太上天皇)

天皇が位を後継者に譲ったのちに名乗る称号で、院政の時代には事実上の最高権力者となったのは誰か。
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上皇(太上天皇) (じょうこう(だじょうてんのう)

【概説】
天皇が皇位を後継者に譲った後に称する尊称。大宝律令などの法制において天皇と同等の権限を持つと規定され、特に平安時代後期の院政期においては、天皇に代わって実質的な最高権力者として君臨した。

太上天皇の誕生と律令制における位置づけ

「太上天皇」という尊称が日本で初めて用いられたのは、飛鳥時代後期の697年に持統天皇が孫の文武天皇に譲位した際である。これは、若年で即位した天皇の後見役として、実権を握り続けるための政治的な意図を持ったものであった。

その後に制定された大宝律令や養老律令において、太上天皇の法的な地位が明確化された。律令法上、上皇は天皇と同等の権威を持ち、天皇の出す「詔(みことのり)」に相当する「院宣(いんぜん)」や「院の庁下文」などを発給することが可能であった。しかし、天皇と上皇が同時に存在することで、権力の二重構造が生じる危険性も孕んでいた。事実、奈良時代には孝謙上皇と淳仁天皇の対立から藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)が勃発するなど、しばしば政治的混乱の火種となった。

院政の開始と「治天の君」の成立

平安時代中期まで、政治の実権は外戚として天皇を補佐する藤原北家による摂関政治が主流であった。しかし、11世紀後半に藤原氏と直接的な外戚関係を持たない後三条天皇が即位したことで状況は変化する。その後継である白河天皇は、1086年に幼い堀河天皇に譲位して上皇となった後も、天皇家の家長(治天の君)として引き続き国政を主導した。これが院政の始まりである。

院政期における上皇は、自らの政務機関である「院庁」を組織し、近臣を登用して専制的な政治を行った。また、独自の軍事力として北面武士を設置するなど、武士階級の台頭を促す要因ともなった。白河・鳥羽・後白河の三代にわたる院政期において、上皇は朝廷における最高権力者としての地位を確立し、摂関家の権力は相対的に低下していった。

中世以降の変遷と近現代における復活

鎌倉時代に入ると、政治の実権は次第に鎌倉幕府へと移っていったが、朝廷内の統治権は依然として「治天の君」たる上皇が握っていた。しかし、1221年に後鳥羽上皇が幕府打倒を掲げて挙兵した承久の乱で敗北すると、上皇に対する幕府の統制が強まり、朝廷の権限は大きく制限されることとなった。

その後も両統迭立の時代を経て、室町時代から戦国時代にかけて朝廷の権威と経済基盤が衰退すると、譲位の儀式を行う費用すら工面できなくなり、上皇という存在自体が減少した。江戸時代には幕府の庇護と統制の下で譲位が復活したものの、1817年に譲位した光格天皇を最後に上皇は長らく途絶えることとなった。

明治時代以降、旧皇室典範および現行の皇室典範において「皇位継承は天皇の崩御によってのみ行われる(終身在位)」と規定されたため、上皇の制度は法的に消滅していた。しかし、2017年に成立した天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づき、2019年(令和元年)に明仁天皇が譲位し、およそ200年ぶりに「上皇」という称号が復活することとなった。

院政: もうひとつの天皇制 (中公新書 1867)

平安時代の権力構造を解体し、天皇と上皇の二重権力という知られざる政治システムの実態を鮮やかに解き明かす一冊。

院政 天皇と上皇の日本史 (講談社現代新書)

古代から中世への転換期を象徴する院政の仕組みを通じ、日本史における天皇という存在の特質を浮き彫りにする歴史の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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