スターリング

高校日本史的重要度

スターリング

1791~1865

【概説】
イギリスの東インド・中国艦隊司令長官。幕末の1854年、ロシア軍艦を追跡して長崎に来航し、日本との間で初となる対外条約「日英和親条約」を締結した海軍軍人。本来の目的は軍事的な交渉であったが、幕府側との対話の過程で国交樹立に至った人物である。

クリミア戦争と長崎来航の背景

1853年にヨーロッパで勃発したクリミア戦争は、イギリス・フランスなどの同盟国とロシアとの戦闘であり、その火花は極東アジアにも及んでいた。イギリス東インド・中国艦隊司令長官であったジェームズ・スターリングは、太平洋方面で活動するロシアのプチャーチン艦隊を捜索・追撃する任務を帯びていた。

スターリングが1854年9月(嘉永7年)に軍艦4隻を率いて長崎に来航した主たる目的は、ロシア艦隊が日本の港で補給を行うことを阻止し、あわせてイギリス艦隊が日本で薪水や食料の補給を得られるよう、日本側に「中立」の維持を求めることにあった。つまり、当初は国交の樹立や通商の開始といった政治・商業的な意図はなく、純粋に軍事作戦の一環としての来航であった。

「誤解」から生まれた日英和親条約

スターリングはイギリス政府から対日条約交渉の全権を付与されていなかった。しかし、対応にあたった長崎奉行水野忠徳らは、前年に来航したアメリカのペリーと同様に、スターリングも武力を背景とした開国交渉を求めてきたものと受け止めた。すでに同年の3月に日米和親条約を結んでいた幕府側は、イギリスとも同様の条件で妥協を図る方針をとった。

幕府側が条約締結を前提に交渉を進めたため、スターリングもこの好機を逃さず、本国からの訓令の範囲を超えて交渉に応じた。こうして双方の思惑のずれや誤解が重なった結果、1854年10月14日(安政元年)に日英和親条約が調印されることとなった。この条約によって、イギリス船に対して長崎箱館函館)の2港が開港され、最恵国待遇などが認められた。

条約の歴史的意義と本国の評価

スターリングが結んだ日英和親条約は、イギリスにとって日本との最初の公式な外交合意となった。しかし、この条約はあくまで「薪水の給与(給炭地・寄港地の確保)」を目的とした限定的な開国であり、イギリスが真に求めていた自由な「通商(貿易)」の開始には至っていなかった。

そのため、自由貿易帝国の拡大を目指していたイギリス本国(外務省)にとって、この条約は不満足なものであり、スターリングの独断専行的な交渉姿勢は必ずしも高く評価されなかった。しかし、この交渉によって日本がイギリスに対して門戸を開いたことは事実であり、のちに1858年にエルギン使節が来航して締結される本格的な通商条約(日英修好通商条約)への重要なステップとなった。

最終更新:
2026年7月21日 @ 22:50

日本史一問一答(ランダム)

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