スターリン
【概説】
ソビエト連邦の最高指導者。第二次世界大戦において連合国側の一角としてソ連を指導し、大戦末期にはヤルタ協定に基づいて日ソ中立条約を破棄し、対日参戦を断行した。戦後の冷戦体制の形成や日本の領土問題、シベリア抑留など、日本の近現代史にも多大な影響を及ぼした人物である。
ソ連邦最高指導者としての台頭と極東政策
ヨシフ・スターリンは、ロシア革命を指導したレーニンの死後、激しい権力闘争を勝ち抜いてソビエト連邦の最高指導者となり、強力な独裁体制を確立した。1930年代、日本が満州事変を起こして中国大陸へ進出すると、スターリンは極東における日本の軍事的脅威を強く警戒した。張高峰事件(1938年)やノモンハン事件(1939年)などで日ソ両軍は国境付近で激しく衝突したが、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦が勃発すると状況は一変する。西のドイツとの戦いを警戒して二正面作戦を避けたいスターリンと、南進政策を進めるために北方の安全を確保したい日本の思惑が一致し、1941年4月に日ソ中立条約が締結された。
ヤルタ会談と対日参戦の密約
1941年6月に独ソ戦が勃発すると、スターリンは国家の総力を対独戦に集中させたため、極東方面では日本との中立関係を維持し続けた。しかし、戦局が連合国側の優位に傾きドイツの敗色が濃厚になると、スターリンは戦後の覇権を見据えた外交を展開するようになる。1945年2月、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチルとともに行われたヤルタ会談において、スターリンはドイツ降伏から2〜3ヶ月後の対日参戦を約束した。その見返りとして、南樺太(サハリン南部)の返還や千島列島の引き渡しなどを定めたヤルタ協定(秘密協定)が結ばれたのである。
電撃的な対日参戦とシベリア抑留
1945年8月8日、スターリンは有効期間が残っていた日ソ中立条約の一方的な破棄を通告し、翌9日未明に満州や朝鮮半島北部、樺太などへ一斉に侵攻を開始した。このソ連対日参戦は、広島への原爆投下とともに、日本政府にポツダム宣言受諾を決断させる決定的な要因となった。日本の降伏後もソ連軍は侵攻を続け、現在の北方領土問題の端緒となる北方四島を含む千島列島を占領した。さらにスターリンの指令により、満州などで武装解除された約60万人の日本軍将兵や民間人が、不法にソ連各地の労働収容所へ連行された。このシベリア抑留は、極寒の環境下での過酷な強制労働と飢餓によって約6万人の犠牲者を出すという、日本現代史における未曾有の悲劇をもたらした。
冷戦の激化と日本への影響
戦後、スターリン率いるソ連とアメリカを中心とする資本主義陣営との間で冷戦が本格化した。日本はアメリカの単独占領下に入ったため、スターリンは日本を直接自陣営に引き込むことはできなかったが、コミンフォルム(共産党情報局)を通じて日本の共産主義運動に強い影響力を持ち続けた。また、1950年に勃発した朝鮮戦争においては、北朝鮮の金日成による南侵を秘密裏に承認・支援し、これが日本が「反共の防波堤」として警察予備隊を創設し再軍備へと向かう契機となった。1953年3月にスターリンが死去すると、ソ連の対外政策は徐々に平和共存路線へと転換し、1956年の日ソ共同宣言による両国の国交回復へと繋がっていくことになる。