日英和親条約
【概説】
1854年(安政元年)に日本(江戸幕府)とイギリスとの間で締結された初の二国間条約。東インド艦隊司令長官スターリングが長崎に来航し、日米和親条約に準じる形で長崎と箱館(函館)の開港などを定めた。
クリミア戦争とスターリングの来航背景
1853年のペリー来航と、翌1854年3月の日米和親条約締結により、日本は長年にわたる「鎖国」体制からの転換を余儀なくされた。このアメリカの動きにいち早く反応したのが、アジアに広大な植民地を持つイギリスであった。当時、ヨーロッパではクリミア戦争(1853〜56年)が勃発しており、イギリス・フランス連合軍はロシアと交戦状態にあった。イギリス東インド艦隊司令長官のスターリングは、ロシアの極東艦隊が日本の港を補給基地として利用することを阻止するとともに、自国艦隊の補給地を確保する目的で、1854年9月に長崎へ来航した。当初は軍事的な対抗策としての交渉が意図されていたが、長崎奉行との交渉の過程で、国交を開くための和親条約締結へと舵が切られることとなった。
条約の内容と非対称性
1854年10月14日(安政元年8月23日)、長崎奉行の水野忠徳らとスターリングとの間で「日英和親条約」が調印された。その主な内容は、長崎と箱館(函館)の2港をイギリス船に開放し、薪水、食料、石炭などの給与を認めることであった。また、イギリス船が遭難した際の救助規定や、イギリス側の役人を港に置く権利なども含まれていた。さらに重要な点として、他国(アメリカなど)に与えた有利な条件をイギリスにも適用する最恵国待遇が一方的に認められた。これは後の不平等条約(日米修好通商条約など)にみられる不平等な国際関係の原型となった。
日米和親条約との相違と「解釈のズレ」
日英和親条約は先行する日米和親条約をモデルにしていたが、異なる特徴も有していた。日米条約が下田・箱館を開港したのに対し、日英条約では江戸幕府が古くから対外窓口として管理していた長崎が選ばれた。しかし、この条約の最大の問題は、日本語版と英語版の間に重大な「翻訳および解釈のズレ」が存在したことである。日本側は従来の薪水給与の範囲内での「制限的な開港」と捉えていたのに対し、イギリス側は軍事・通商の拠点としての「本格的な港湾利用の許可」と解釈していた。この解釈の相違は、のちの1858年に締結される本格的な通商条約(日英修好通商条約)への布石となり、日本の開国化をさらに決定づける要因となった。