最恵国待遇
【概説】
条約国の一方が他国に与えた最も有利な待遇(関税の引き下げや各種の特権など)を、締結相手国にも自動的に適用することを約束する外交上の取り決め。幕末の日本が欧米列強と結んだ条約においては、日本側のみがこの義務を一方的に負う「片務的最恵国待遇」が規定された。これにより、領事裁判権(治外法権)の承認や関税自主権の欠如と並んで、日本の主権を制限する不平等条約の根幹となった。
近代条約体系と「片務的」最恵国待遇の構造
最恵国待遇は、本来であれば近代国際法のもとで対等な国家間において互恵的に結ばれる「双務的」なものである。これは、自国が他国に対して新たに付与した有利な条件を、条約を結んでいる相手国にも同様に適用し合うことで、国際的な機会均等や通商の円滑化を図る役割を持つ。しかし、江戸幕府が結んだ条約における最恵国待遇は、相手国は日本に対してその義務を負わず、日本側のみが一方的に相手国に有利な待遇を与える「片務的最恵国待遇」であった。
この片務性の大きな弊害は、日本が特定の国に妥協して新たな特権や便益を与えた場合、その内容が日本側の意志にかかわらず、以前に条約を締結したすべての欧米列強に対しても自動的に、かつ無条件で提供されてしまう点にある。これにより、日本は個別国との交渉で外交的な駆け引きを行う主権を著しく制限されることとなった。
日米和親条約から安政の五カ国条約への導入
日本における片務的最恵国待遇の導入は、1854年(安政元年)に締結された日米和親条約(第12条)に始まる。ペリーの来航によって開国を余儀なくされた江戸幕府は、清国などアジア諸国における前例を背景にしたアメリカ側の要求を受け入れ、この規定を呑むこととなった。その後、イギリスやロシアなどと結ばれた和親条約にも同様の条項が盛り込まれた。
さらに、1858年(安政5年)に大老・井伊直弼のもとで調印された安政の五カ国条約(日米修好通商条約など)において、この片務的最恵国待遇はより強固なものとして継承された。欧米列強はこれにより、日本が将来的にどの国と通商条約を結んでも、常に「最も有利な地位」を自動的に確保できる体制を構築したのである。
条約改正交渉と「双務化」への道のり
明治新政府が樹立されると、欧米列強と対等な主権国家となるために、不平等条約の改正が国家の最優先課題となった。1871年(明治4年)に派遣された岩倉使節団を皮切りに、歴代の外務大臣が交渉に臨んだが、列強側にとって都合の良い片務的最恵国待遇の撤廃は容易ではなかった。列強は日本の近代法典の未整備などを理由に拒絶し続けたため、日本は法制度の近代化や欧化政策を推し進める必要に迫られた。
この膠着状態を打破したのが、1894年(明治27年)、日清戦争の直前に外務大臣・陸奥宗光が調印に成功した日英通商航海条約である。これにより領事裁判権の撤廃が実現したと同時に、最恵国待遇が「片務的」なものから、お互いに適用し合う「相互的(双務的)」なものへと改められた。この成功が呼び水となり、他の列強とも同様の条約が結ばれ、1911年(明治44年)の小村寿太郎による関税自主権の完全回復へと繋がっていった。