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  • 里長(郷長)

    里長(郷長) (りちょう(ごうちょう)

    7世紀末〜8世紀

    【概説】
    古代日本における律令制下で、地方行政の末端単位である「里(のちに郷)」に置かれた首長。地域の有力な農民(百姓)の中から選ばれ、国司や郡司の指揮のもとで行財政の実務を担った。戸籍・計帳の作成補助や租税の徴収督促など、律令国家の民衆支配を最前線で支える役割を果たした。

    「国・郡・里」制から「郷里制」への変遷

    大化の改新から大宝律令の制定(701年)へと至る過渡期において、律令国家は地方行政区画として国・郡・里の三段階の制(国郡里制)を整えた。このうち最末端の行政単位が「里(り)」であり、戸籍上の「戸」を50戸集めて1里とすることが原則とされ、その長として里長が置かれた。

    その後、霊亀元年(715年)には、それまでの「里」を「郷」と改め、さらに郷の下に50戸ずつからなる「里」を再編する郷里制(1郷=3里、1里=50戸)が導入された。これに伴い、従来の里長は郷長(ごうちょう)へと改称され、新たに再編された里には里正(りせい)が置かれた。しかし、この郷里制は行政実務上煩雑であったため、天平宝字年間(8世紀半ば)には下の里が廃止されて「郷制」となり、末端の行政単位は「郷」、その長は「郷長」に一本化されることとなった。

    里長(郷長)の職務と任用条件

    里長(郷長)は、郡司の推薦に基づき、国司によって任命された。その選定対象となったのは、郡内の一般百姓(白丁)の中でも「有能徳望の士」、すなわち地域社会において実力と信望を兼ね備えた富豪層(在地有力者)であった。彼らには、職務の代償として兵役や雑徭(雑多な労役)などの課役が免除される特権が与えられた。

    その職務は極めて多岐にわたり、国家が人民を支配する上での根幹に関わるものばかりであった。主な任務としては、税の基本台帳となる戸籍・計帳の作成補助、班田収授法に基づく田地の分配や回収の補助、農業を督励する「勧農」、租税(租・調・庸や公出挙)の徴収と督促、さらには治安維持のための不審者の取り締まり(検邪)や労役者の動員などが挙げられる。彼らは文字通り、国家の命令を民衆に浸透させるための最前線の実務家であった。

    律令支配における歴史的意義

    里長(郷長)の歴史的意義は、中央集権を目指す律令国家と、個々の農民(公民)を繋ぐ「結節点」として機能した点にある。郡司がかつての国造(くにのみやつこ)などの伝統的豪族の流れを汲む支配層であったのに対し、里長(郷長)は民衆と同じ「百姓(ひゃくせい)」の身分から選ばれた。

    国家が個別の人民から確実に税を徴収し、労働力を徴発するためには、地域社会の内部事情に通じた実務者の存在が不可欠であった。里長(郷長)は、地域社会の秩序を維持する「村落の首長」としての性格を持ちながら、同時に律令官僚機構の末端を担う「行政官」としての二面性を持っていた。これにより、律令国家は個々の民衆にまで支配の網の目を巡らせることが可能となったのである。

  • 里(郷)

    里(郷) (り(ごう)

    7世紀末〜8世紀

    【概説】
    律令制下における地方行政組織の最末端の単位。大宝律令によって「国・郡・里」の地方支配体制(国郡里制)が確立され、原則として50戸を「1里」として編成した行政区画。奈良時代に「郷」と改称され、のちの時代における地方社会の基礎的な地理単位となった。

    国郡里制と五十戸一里の原則

    大化の改新以降、律令国家の形成過程で整備が進められた地方行政制度は、701(大宝元)年の大宝律令制定にともない国郡里制(こすぐんりせい)として完成した。地方は国司が治める「国」、郡司が治める「郡」に分けられ、その下部に最末端の行政単位として「里」が設置された。

    里を編成する基準は、原則として50戸で1里とする「五十戸一里(ごじゅっこいちり)」の原則に基づいていた。この「戸」とは、血縁関係を超えて行政的に編成された「編戸(へんこ)」であり、自然発生的な集落(共同体としての村落)とは必ずしも一致しない、国家による人身支配・租税徴収のための人工的な行政区画であった。各里には、在地の有力者から任命された里長(りちょう)が置かれ、戸籍・計帳の作成、調や庸などの租税徴収、兵士の徴発といった末端の実務を担った。

    「郷里制」の導入と「郷」への統合

    律令国家による民衆支配の強化にともない、地方行政の末端組織は改編を余儀なくされた。715(霊亀元)年、従来の「里」を「」と改称し、さらにその下に新たな末端単位として「里」を複数置く郷里制(ごうりせい)が施行された。これにより、1郷(旧1里=50戸)の中に、10〜25戸程度の小さな「里」が2〜3箇所作られることになり、国家による民衆把握の細分化が試みられた。

    しかし、この二重の末端組織は、実務上の煩雑さや在地社会の実態との乖離から長続きしなかった。740(天平12)年には、細分化された「里」が廃止され、行政単位は「」へと一本化された。この郷の下に複数の自然村落を包括する体制は「郷郷制(ごうごうせい)」または「郷制」と呼ばれ、これ以降、中世にいたるまで「郷」は地方社会の重要な地域区分として定着していくことになる。

    租税徴収の動揺と行政区画の形骸化

    里(郷)の制度は、戸籍によって人民を把握し、口分田を与えて租税を課す「個別人身支配」を前提としていた。しかし、8世紀半ばを過ぎると、過酷な負担から逃れるための浮浪や逃亡、戸籍上の性別を偽る「偽籍」が急増し、行政的な「戸」の維持が困難となった。

    これにより、50戸を基準とする郷の枠組みは実態を失い、次第に土地(班田)の所在を示す地理的な境界や、自然村落を基盤とする地域区分へと性質を変えていった。里(郷)の変遷は、律令制が目指した強力な中央集権的支配が、日本社会の在地の現実に適応していく過程を象徴している。

  • 仕丁

    仕丁 (しちょう)

    7世紀末〜10世紀頃

    【概説】
    古代の律令制下において、地方から中央(朝廷)へ徴発された肉体労働義務。50戸からなる「里(のちの郷)」ごとに2人の正丁が選ばれ、3年間にわたって都の諸官司で無償の雑役に服した。国家機構を維持するための基礎的な労働力として重宝されたが、民衆にとっては極めて重い負担であった。

    律令体制における仕丁の仕組みと地域社会の負担

    大宝律令の制定によって確立された税制・労働徴発制度において、仕丁は国家のインフラと中央官司を維持するための実務労働力として位置づけられた。賦役の基準となる戸籍に基づき、50戸を一単位とする「里(のちに郷と改称)」から、2人の正丁(21歳から60歳までの健康な男子)が選ばれて都へ送られた。彼らの勤務期間は3年間に及び、その間は無償で労働に従事した。

    仕丁の制度で特徴的なのは、中央での勤務期間中に必要な食糧や衣服、往復の旅費などの経費が、仕丁を送り出した郷の住民たちによって共同負担された点である。この負担は「仕丁ト(しちょうと)」(仕丁粮とも呼ばれる)として同郷の戸に割り当てられた。したがって、仕丁の徴発は直接選ばれた個人だけでなく、送り出す地方社会全体にとっても多大な経済的負担となっていた。

    都における具体的役割と過酷な労働実態

    都に上った仕丁たちは、宮門の警備を担当する衛門府をはじめ、太政官や各種の省、内裏などの諸官司に配属された。そこでの具体的な役務は、官庁の清掃、物資や薪炭の運搬、使者の任務、あるいは各種工作など、官僚機構の末端を支える肉体労働や雑役が中心であった。

    慣れない土地での生活と過酷な労働は、地方から出てきた仕丁たちを疲弊させた。さらに、名目上は郷から供給されるはずの仕丁ト(食糧など)が滞ることも多く、都で飢えや病に苦しむ者が後を絶たなかった。勤務中に死亡する者も少なくなく、都の治安を乱す浮浪者となるケースもあった。このように、仕丁は華やかな律令国家を陰で物理的に支える、悲劇的な存在でもあった。

    律令制の動揺と仕丁の変容

    仕丁をはじめとする過酷な労役や兵役、重い租庸調の負担は、民衆の抵抗を招く直接的な要因となった。奈良時代後期から平安時代にかけて、仕丁に選ばれることを避けるために、戸籍の性別や年齢を偽る「偽籍」や、居住地を離れて身を隠す「浮浪・逃亡」が急増した。これにより、地方から計画通りに仕丁を徴発することは極めて困難になっていった。

    この人的資源の枯渇に対し、朝廷は実物の労働力を動員することを諦め、代わりに銭貨や米、布などを納めさせる代銭納(仕丁銭・仕丁米の徴収)へと制度を移行させていった。これにより、実質的な肉体労働としての仕丁制度は徐々に衰退し、平安時代中期以降の律令制の形骸化(王朝国家体制への移行)にともなって、完全に消滅することとなった。

  • 雑徭

    雑徭 (ざつよう)

    701年~

    【概説】
    日本の律令制において、公民に課された地方での労働奉仕(労役)の義務。国司の命令によって、地方の国衙(国役所)の修築、道路や河川の土木工事、官衙の雑務などに使役された。

    律令財政における「地方財源」としての役割

    大宝律令(701年)および養老律令(718年)によって体系化された律令税制において、税は大きく「中央財源」と「地方財源」に分かれていた。都へと送られる租・庸・調が中央政府の財政を支えたのに対し、雑徭は地方行政の維持・経営を支える最大の労働力、すなわち「地方財源」として位置づけられていた。

    負担の対象は主に21歳から60歳までの良民男性(正丁)であり、年間で最大60日を限度として使役された。なお、61歳から65歳までの次丁(老丁)は正丁の2分の1(30日)、17歳から20歳までの中男(少丁)は4分の1(15日)の負担とされ、年齢や身体状況に応じた傾斜配分がなされていた。

    農民への過酷な負担と自弁の原則

    雑徭が農民(公民)にとって極めて過酷であった最大の理由は、「自弁」の原則にあった。雑徭に従事する期間中、農民は自らの食料(糧食)や衣服、さらには作業道具までも自己負担で用意して赴かねばならなかった。これは実質的な生活費の二重負担であり、農民の家計を著しく圧迫した。

    また、国司による使役は農繁期(春の田植えや秋の収穫期)を避けることが原則とされていたが、実際には国司の都合で急な工事に動員されることも多く、農業経営に深刻な打撃を与えた。さらに、土木工事に伴う事故や過酷な労働環境により、動員先で命を落とす農民も少なくなかった。

    律令制の変容と雑徭の形骸化

    奈良時代中期以降、重すぎる税負担から逃れるために、農民が戸籍の性別を「女」と偽る偽籍や、本籍地を離れて他国へ逃れる浮浪・逃亡が相次いだ。これにより、雑徭を課す基盤となる正丁の数が激減することとなる。

    政府は事態を重く受け止め、757年(天平宝字元年)には橘奈良麻呂の変ののちの宥和政策の一環として、正丁の雑徭制限日数を年間60日から30日へと半減させる改革を行った。しかし、平安時代に入ると受領(現地に赴任する国司)の権限が強化され、制限日数を無視した超過労働や私的な使役が横行するようになり、律令制的な戸籍に基づく雑徭の体系は崩壊へと向かった。その後、中世の荘園公領制においては、名主らに対して課される「国役(くにとが)」や「夫役(ぶやく)」へと形を変えて継承されることとなる。

  • 中男(少丁)

    中男(少丁) (ちゅうなん/しょうてい)

    701年〜10世紀頃

    【概説】
    律令制下の日本において、17歳から20歳までの青年男子を指す課税・労働上の区分。国家の基本労働力である「正丁」の手前の世代にあたり、税や労役の負担が軽減されていた。

    律令制における年齢区分と「中男」の定義

    大宝律令(701年)によって整備された律令国家では、人民を戸籍に登録して国家が直接把握し、年齢や性別、身分に応じてきめ細かく課税・労役の区分を設定した。このうち、17歳から20歳までの青年男子を中男(ちゅうなん)と呼んだ。

    中男は、国家の最大の財政基盤であり軍事力でもある21歳から60歳までの男子(正丁)に至る前段階の世代として位置づけられた。その後、天平宝字元年(757年)の養老律令の施行に際して、兵役や税負担の緩和を目的として年齢区分が引き上げられ、18歳から21歳までがこの区分に該当するようになり、呼称も唐風の少丁(しょうてい)へと改められた。

    中男の税負担と「中男作物」の役割

    中男は、本格的な労働力としての課税に耐えうる正丁に比べて、税負担が大きく軽減されていた。具体的には、平城京などでの都城建設や地方官衙での肉体労働に駆り出される雑徭(ぞうよう)が、正丁(年間60日)の半分である30日以内に制限されていた。また、労役の代替として布などを納める「庸」や、最たる負担であった「兵役」は免除されていた。

    最も大きな特徴は、国家への納付物である調の負担方法である。大宝律令下では、中男の調は正丁の4分の1程度とされていた。しかし、養老律令が施行される過程で、中男に対しては定額の調の代わりに、その地域の特産物(紙、漆、繊維、染料、器物など)を納めさせる中男作物(ちゅうなんさくもつ)の制度が定着した。これは、中央政府が必要とする多様な手工業品や実用的な資材を、地方の青年男子の労働力を利用して効率的に確保するための仕組みであった。

    国家支配の弛緩と「中男」の形骸化

    中男(少丁)の制度は、戸籍によって人民一人ひとりの年齢と性別が正確に把握されていることを前提としていた。しかし、奈良時代後期から平安時代にかけて、調・庸や兵役といった重い負担を避けるため、戸籍上で性別を「女」と偽る「偽籍(ぎせき)」や、年齢を偽って正丁を中男や老丁(高齢者)に見せかける不正が横行するようになった。

    このような階層移動や偽装の常態化は、政府が把握する正丁の激減を招き、律令制に基づく税収システムを崩壊させる要因となった。結果として、青年男子を中男(少丁)として段階的に課税する精緻な年齢区分制度は機能しなくなり、10世紀の王朝国家体制への移行期には、戸籍による人別支配から、土地(名田)を対象に課税する体制へと国家の仕組み自体が大きく変容していくことになった。

  • 正丁・次丁・老丁

    正丁・次丁・老丁 (せいてい・じてい・ろうてい)

    701年〜

    【概説】
    律令制下の日本における、戸籍に登録された男子の年齢や身体状況に応じた区分。租税や労役、兵役などを課す際の基準となる税負担の基本単位。

    律令体制における戸籍と「課口」の管理

    大化の改新から大宝律令の制定(701年)に至る過程で、古代日本は唐の制度にならった中央集権的な律令国家の建設を進めた。その財政基盤を支えたのが、戸籍(庚午年籍や庚寅年籍など)に基づく人民の把握である。国家は、良民の男子を年齢や身体の健康状態によって細かく区分し、税や労働力を体系的に徴収する仕組みを整えた。このように税負担の対象となる人々を「課口(かこう)」と呼び、その中核を担ったのが「正丁」「次丁」「老丁」といった区分であった。

    各区分の定義と税負担の差異

    律令法において、男子は以下のように区分され、それぞれ異なる税負担が課せられていた。

    • 正丁(せいてい):21歳から60歳までの健康な男子。国家の労働力および軍事力の主軸であり、調(郷土の特産物)や(都での労役に代わる布)、年間最大60日の雑徭(地方での土木労働)、さらには軍団への兵役義務をすべて全量(全額)負担した。
    • 老丁(ろうてい):61歳から65歳までの男子。体力的な衰えを考慮され、調・庸や雑徭(年間30日)といった負担が正丁の半分に軽減された。なお、66歳以上は「退丁(たいてい)」、76歳以上は「老(ろう)」などと呼ばれ、段階的に免税された。
    • 次丁(じてい):正丁や老丁のうち、身体に障害(「残疾」などと呼ばれる比較的軽度の障害)を持つ者。あるいは、17歳から20歳までの「中男(ちゅうなん)/少丁(しょうてい)」の一部などが該当し、正丁の半分の税負担(半輸)とされた。

    このように、年齢と健康状態に応じた「能力比例」的な課税が行われたが、その実態は非常に厳格なものであった。

    過酷な税負担と律令制の動揺

    正丁に課された負担、とりわけ特産品を都まで徒歩で運ぶ「運脚(うんきゃく)」や、東国から九州の防備に向かう「防人(さきもり)」などの兵役は、農民にとって極めて過酷なものであった。道中で行き倒れる者や、帰郷できずに没落する者が相次いだため、農民たちは過酷な税から逃れるための抵抗手段をとるようになる。

    その代表例が、戸籍上で正丁の男子を「女」と偽って登録する偽籍(ぎせき)や、本籍地を離れて他国へ逃げ出す浮浪・逃亡である。これにより、国家が把握する正丁の数は激減し、国家財政や軍事体制は深刻な危機に直面した。奈良時代から平安初期にかけて、政府はこれらの対策に追われることとなり、やがて人頭税を基本とする律令支配から、土地(名田)を基準に課税する「名体制(みょうたいせい)」へと社会システムが変質していく契機となった。

  • 条里制

    条里制

    【概説】
    班田収授を正確かつ円滑に行うため、平野部の農地を約109m四方の正方形に規則正しく区画した古代の土地制度。律令国家が公地公民制を物理的・空間的に担保するための基盤であり、現在でも日本の農村景観や地名にその痕跡を色濃く残している。

    公地公民制と条里制の導入

    条里制は、飛鳥時代後期から本格化する律令国家の形成過程において、全国の平野部に導入された大規模な土地区画制度である。645年の大化の改新によって打ち出された公地公民の理念に基づき、国家は人民に対して一定面積の農地(口分田)を支給し、そこから税を徴収する班田収授法を実施することとなった。しかし、この制度を全国規模で正確に運用するためには、土地の位置と面積を客観的に計量・把握し、台帳(班田図や計帳)上で一元管理できる仕組みが不可欠であった。そこで、自然の地形に依存していた従来の不規則な農地を人工的かつ幾何学的に作り変え、戸籍に基づく土地の支給と収公を可能にしたのが条里制である。

    「条」と「里」による区画の仕組み

    条里制における区画の基本単位は、一辺が約109メートル(当時の尺貫法で約60歩)の正方形である。この1区画の面積を一町(約1ヘクタール)といい、区画そのものは「坪(つぼ)」と呼ばれた。さらに、この「坪」を縦横6区画ずつ、合計36坪集めたより大きな正方形(約654メートル四方)を一つの基準とし、これを「里(り)」と設定した。

    広大な平野部においては、この「里」を基準として東西方向の列を「条」、南北方向の列を「里」と名付け、座標軸のように位置を示す「条里呼称法」が用いられた。これにより、例えば「二条三里の五ノ坪」といったように、全国どの場所の田地であっても書面上においてその位置と面積を極めて正確に特定することが可能となったのである。

    律令国家の権威の視覚化

    条里制の施行は、単なる農地整理や測量技術の発展という実務的な側面にとどまらない。自然の河川や地形を無視してまで大地に長大な直線を定規で引いたように刻み込むことは、天皇を中心とする律令国家の圧倒的な権力と動員力を地方の豪族や民衆に見せつける行為でもあった。特に地方を統治する拠点であった国衙(国府)や郡衙の周辺から優先的に条里の整備が進められたことは、国家の威信と支配の浸透を視覚的に表現する空間的なデモンストレーションとしての意味合いを強く持っていた。

    後世への影響と現代に残る遺構

    平安時代以降、律令国家の衰退とともに班田収授の実施が途絶え、土地制度が荘園公領制へと移行していった後も、条里制による区画システム自体は長く機能し続けた。土地の売買や寄進の際にも、「条・里・坪」を用いた呼称は正確な位置指定に都合が良かったためである。

    現代の日本においても、近畿地方や九州地方をはじめとする全国各地の平野部には、水田のあぜ道や水路、道路などに条里制の直線的な区画(遺構)がそのまま残されている場所が多い。また、「一ノ坪」「三条」「六丁」といった地名やバス停の名前としてもその痕跡を色濃く残しており、古代国家の大規模な土木事業が、1300年以上の時を超えて現代の日本の景観に息づいていると言える。

  • 私奴婢

    私奴婢 (しぬひ)

    7世紀末〜10世紀頃

    【概説】
    飛鳥時代から平安時代にかけての律令制下において規定された、最下層の身分である「五色の賤」の一つ。貴族や豪族などの個人に私有され、牛馬と同様に売買や譲渡、相続の対象となった存在。

    律令体制における「五色の賤」と私奴婢

    大化の改新以降、国家による一元的な人身支配を目指して整備された律令法(大宝律令など)のもとで、人民は大きく良民(りょうみん)賤民(せんみん)の二つに大別された(良賤の法)。賤民はさらに5つの階層に細分化され、これらは「五色の賤(ごしきのおん)」と呼ばれた。五色の賤には、公的な存在である「陵戸(りょうこ)」「官戸(かんこ)」「公奴婢(くぬひ)」と、私的に所有される「家人(けにん)」「私奴婢(しぬひ)」があった。

    この中で最も権利が制限され、最下層に位置づけられたのが私奴婢である。公奴婢が官庁に属し、一定の年齢に達すれば良民に解放される道があったのに対し、私奴婢は特定の個人(皇族、貴族、豪族など)の私有物として扱われ、一代限りの身分ではなく、その子孫も代々私奴婢の身分を強制された。良民との婚姻は固く禁じられており、私奴婢同士の間に生まれた子供は、母方の主人の所有物となる規定が存在した。

    法的地位と経済的実態

    私奴婢は財産として扱われたため、主人の意思によって売買、譲渡、相続の対象とされた。しかし、完全に権利を否定された奴隷だったわけではない。律令国家は、私奴婢もまた戸籍に登録される国家の「人身」として把握していた。そのため、私奴婢にも良民の3分の1にあたる口分田(くぶんでん)が支給され、そこから「租」を納税する義務を負っていた。また、主人が私奴婢を理由なく殺害した場合は、殺人罪として処罰されるなど、法的な保護も一定程度は存在した。

    このように、国家が私奴婢に限定的ながらも権利と納税義務を認めていた背景には、豪族による私的隷属民の完全な囲い込みを防ぎ、国家による一元的な統治(公地公民制の理念)を維持しようとする意図があった。

    律令制の変容と私奴婢の消滅

    奈良時代から平安時代初期にかけて、偽籍(戸籍の偽り)や浮浪・逃亡が相次ぐと、戸籍に基づく人身支配体制は急速に動揺した。さらに、9世紀から10世紀にかけて公地公民制が形骸化し、荘園の拡大や国衙領における名体制(みょうたいせい)への移行が進むと、戸籍に依拠した「良賤の法」はその実効性を失っていった。

    10世紀初頭に醍醐天皇のもとで出された「延喜荘園整理令」の時代を境に、戸籍の編纂自体が行われなくなり、私奴婢という法的な身分区分は自然消滅していった。しかし、隷属的な労働力が日本社会から完全に消え去ったわけではない。私奴婢という律令法上の呼称は消えたものの、彼らの労働実態は中世の荘園や武士の館における下人(げにん)所従(しょじゅう)といった、新たな私的隷属労働力へと引き継がれていくこととなった。

  • 公奴婢

    公奴婢 (くぬひ)

    701年〜

    【概説】
    律令制下の日本において、国家(官庁)に所有され雑役などに使役された最下層の身分。陵戸・官戸・家人・私奴婢と並ぶ「五色の賤」の一つであり、売買や譲渡、相続の対象とされた。良民とは厳格に区別され、戸籍も別に作成されるなど、古代律令国家の身分支配の根幹をなす存在であった。

    律令社会の身分秩序と「五色の賤」

    飛鳥時代から奈良時代にかけて整備された律令法(大宝律令や養老律令)のもとでは、人民は良民(りょうみん)賤民(せんみん)の2つに大別された(良賤制)。このうち賤民身分はさらに5つの階級に細分化され、これらを総称して「五色の賤(ごしきのせん)」と呼ぶ。五色の賤は、国家や官庁に所属する「官賎」(陵戸・官戸・公奴婢)と、個人や貴族に所有される「私賎」(家人・私奴婢)に分かれており、公奴婢は官賎の中で最も低い地位に位置づけられていた。

    公奴婢の法的地位と実態

    公奴婢は、中央の官庁や地方の国衙(こくが)に配属され、主に雑務や肉体労働に従事した。彼らは国家の財産(官物)として扱われたため、売買や譲渡、分配の対象とされた。一方で、同じ奴婢でも私有民である「私奴婢」と同様に、良民の3分の1にあたる面積の口分田(くぶんでん)が与えられており、完全な人権否定ではなく、一定の生存権や法的権利が認められていた点に日本の律令制の特徴がある。ただし、婚姻においては良民との通婚(良賤通婚)が厳しく禁止され、生まれた子供の身分は「従母法(じゅうぼほう)」に基づき母親の身分を継承したため、公奴婢の身分は固定化されやすかった。

    律令制の弛緩と奴婢制度の消滅

    奈良時代後期から平安時代初期にかけて、律令支配の原則が崩れ始めると、公奴婢をめぐる社会状況も変化した。過酷な租税負担から逃れるために自ら奴婢になる良民(偽籍など)が急増し、国家の財政基盤である良民が減少したため、政府は奴婢身分の維持に消極的になっていった。国家は良民と奴婢の間に生まれた子を良民とするなど、次第に緊縮・解放政策をとるようになり、9世紀から10世紀にかけて律令支配体制が形骸化していく中で、公奴婢を含む奴婢制度自体が実質的に消滅へと向かった。

  • 家人(飛鳥時代)

    家人 (けにん)

    7世紀末〜10世紀初頭

    【概説】
    律令制下の身分制度において、「五色の賤」に数えられた賤民(非自由民)の一種。特定の皇族や貴族、豪族などの権門に私有されて雑役に従事した、売買の対象とはならない身分。

    良賤制と「五色の賤」における位置づけ

    大化の改新から大宝律令の制定に至る過程で、律令国家は戸籍に登録されたすべての人々を「良民(りょうみん)」と「賤民(せんみん)」の2つに大別する良賤制を確立した。このうち賤民階層は「五色の賤(ごしきのせん)」と呼ばれる5つの身分に細分化されていた。

    五色の賤は、国家に帰属する公有民である「陵戸(りょうこ)」「官戸(かんこ)」「公奴婢(くぬひ)」と、個人や特定の家に帰属する私有民である「家人(けにん)」「私奴婢(しぬひ)」に大別される。家人は、後者の私有民のなかでも上位に位置づけられ、主家の私的な労働力として奉仕する役割を担わされていた。

    家人の法的権利と私奴婢との違い

    同じ私有の賤民である「私奴婢」と比較した場合、家人には一定の法的権利と高い身分保障が与えられていた。最大の相違点は、家人は売買や譲渡の対象にならないという点である。私奴婢が家畜同様に市場で売買され、財産として譲渡・相続されたのに対し、家人は主家の一員に準じる存在として扱われ、人格を完全に否定されることはなかった。

    また、家人は独自の「戸」を構えて家族生活を営むことが認められていた。さらに、班田収授法においては、良民の3分の1しか支給されなかった奴婢とは異なり、良民と同額の口分田(男性には2段)を支給された。納税面でも、良民に課された租(口分田への課税)は支払う必要があったが、庸や調といった身体的労働や特産物納付の義務、兵役などは免除されていた。これらの点で、家人は賤民のなかで最も良民に近い、中間的な身分であったと言える。

    部民制からの推移と制度の形骸化

    家人の起源は、律令制以前のヤマト政権期における部民制(べみんせい)に求められる。大化の改新によって「公地公民制」へと移行するなかで、豪族たちが私有していた「部曲(かきべ)」や「私属の民」の一部が、国家によって「家人」として再定義された。これは、豪族の私有民を一掃しつつも、旧来の支配層の特権や生活基盤を一定程度維持させるための妥協の産物でもあった。

    奈良時代を通じて機能したこの良賤制であったが、平安時代に入ると、戸籍の形骸化や班田収授法の崩壊に伴って急速に弛緩していった。良民と賤民の間の通婚や、人口の流動化によって区別が曖昧になり、10世紀初頭の延喜年間には五色の賤の制度そのものが実質的に消滅した。しかし、「家人」という言葉は、のちに武士団の主従関係における「部下」を指す言葉へと意味を変え、中世を通じて日本の社会構造に深く根づき続けることとなる。