私奴婢 (しぬひ)
【概説】
飛鳥時代から平安時代にかけての律令制下において規定された、最下層の身分である「五色の賤」の一つ。貴族や豪族などの個人に私有され、牛馬と同様に売買や譲渡、相続の対象となった存在。
律令体制における「五色の賤」と私奴婢
大化の改新以降、国家による一元的な人身支配を目指して整備された律令法(大宝律令など)のもとで、人民は大きく良民(りょうみん)と賤民(せんみん)の二つに大別された(良賤の法)。賤民はさらに5つの階層に細分化され、これらは「五色の賤(ごしきのおん)」と呼ばれた。五色の賤には、公的な存在である「陵戸(りょうこ)」「官戸(かんこ)」「公奴婢(くぬひ)」と、私的に所有される「家人(けにん)」「私奴婢(しぬひ)」があった。
この中で最も権利が制限され、最下層に位置づけられたのが私奴婢である。公奴婢が官庁に属し、一定の年齢に達すれば良民に解放される道があったのに対し、私奴婢は特定の個人(皇族、貴族、豪族など)の私有物として扱われ、一代限りの身分ではなく、その子孫も代々私奴婢の身分を強制された。良民との婚姻は固く禁じられており、私奴婢同士の間に生まれた子供は、母方の主人の所有物となる規定が存在した。
法的地位と経済的実態
私奴婢は財産として扱われたため、主人の意思によって売買、譲渡、相続の対象とされた。しかし、完全に権利を否定された奴隷だったわけではない。律令国家は、私奴婢もまた戸籍に登録される国家の「人身」として把握していた。そのため、私奴婢にも良民の3分の1にあたる口分田(くぶんでん)が支給され、そこから「租」を納税する義務を負っていた。また、主人が私奴婢を理由なく殺害した場合は、殺人罪として処罰されるなど、法的な保護も一定程度は存在した。
このように、国家が私奴婢に限定的ながらも権利と納税義務を認めていた背景には、豪族による私的隷属民の完全な囲い込みを防ぎ、国家による一元的な統治(公地公民制の理念)を維持しようとする意図があった。
律令制の変容と私奴婢の消滅
奈良時代から平安時代初期にかけて、偽籍(戸籍の偽り)や浮浪・逃亡が相次ぐと、戸籍に基づく人身支配体制は急速に動揺した。さらに、9世紀から10世紀にかけて公地公民制が形骸化し、荘園の拡大や国衙領における名体制(みょうたいせい)への移行が進むと、戸籍に依拠した「良賤の法」はその実効性を失っていった。
10世紀初頭に醍醐天皇のもとで出された「延喜荘園整理令」の時代を境に、戸籍の編纂自体が行われなくなり、私奴婢という法的な身分区分は自然消滅していった。しかし、隷属的な労働力が日本社会から完全に消え去ったわけではない。私奴婢という律令法上の呼称は消えたものの、彼らの労働実態は中世の荘園や武士の館における下人(げにん)や所従(しょじゅう)といった、新たな私的隷属労働力へと引き継がれていくこととなった。