公奴婢

重要度
★★

【参考リンク】
奴婢(Wikipedia)

公奴婢 (くぬひ)

701年〜

【概説】
律令制下の日本において、国家(官庁)に所有され雑役などに使役された最下層の身分。陵戸・官戸・家人・私奴婢と並ぶ「五色の賤」の一つであり、売買や譲渡、相続の対象とされた。良民とは厳格に区別され、戸籍も別に作成されるなど、古代律令国家の身分支配の根幹をなす存在であった。

律令社会の身分秩序と「五色の賤」

飛鳥時代から奈良時代にかけて整備された律令法(大宝律令や養老律令)のもとでは、人民は良民(りょうみん)賤民(せんみん)の2つに大別された(良賤制)。このうち賤民身分はさらに5つの階級に細分化され、これらを総称して「五色の賤(ごしきのせん)」と呼ぶ。五色の賤は、国家や官庁に所属する「官賎」(陵戸・官戸・公奴婢)と、個人や貴族に所有される「私賎」(家人・私奴婢)に分かれており、公奴婢は官賎の中で最も低い地位に位置づけられていた。

公奴婢の法的地位と実態

公奴婢は、中央の官庁や地方の国衙(こくが)に配属され、主に雑務や肉体労働に従事した。彼らは国家の財産(官物)として扱われたため、売買や譲渡、分配の対象とされた。一方で、同じ奴婢でも私有民である「私奴婢」と同様に、良民の3分の1にあたる面積の口分田(くぶんでん)が与えられており、完全な人権否定ではなく、一定の生存権や法的権利が認められていた点に日本の律令制の特徴がある。ただし、婚姻においては良民との通婚(良賤通婚)が厳しく禁止され、生まれた子供の身分は「従母法(じゅうぼほう)」に基づき母親の身分を継承したため、公奴婢の身分は固定化されやすかった。

律令制の弛緩と奴婢制度の消滅

奈良時代後期から平安時代初期にかけて、律令支配の原則が崩れ始めると、公奴婢をめぐる社会状況も変化した。過酷な租税負担から逃れるために自ら奴婢になる良民(偽籍など)が急増し、国家の財政基盤である良民が減少したため、政府は奴婢身分の維持に消極的になっていった。国家は良民と奴婢の間に生まれた子を良民とするなど、次第に緊縮・解放政策をとるようになり、9世紀から10世紀にかけて律令支配体制が形骸化していく中で、公奴婢を含む奴婢制度自体が実質的に消滅へと向かった。

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