千島列島

ロシアの南下を警戒した幕府が、近藤重蔵や最上徳内らを派遣して探検させた、北海道から北東に連なる列島は何か?
カテゴリ:
重要度
★★★

千島列島

【概説】
北海道の東部からカムチャツカ半島の南端にかけて連なる弧状の列島。江戸時代中期以降、東進を続けるロシア帝国の日本への南下ルートとなり、江戸幕府に強い海防の危機感を与えた。幕府は近藤重蔵や最上徳内らを派遣して探検・調査を行わせ、北方防備の強化を図った歴史的に重要な地域である。

ロシアの東進と千島列島への接近

17世紀以降、シベリアを東進したロシア帝国は、良質な毛皮などの資源を求めてカムチャツカ半島から千島列島へと南下を始めた。18世紀初頭には北千島の占守島(シュムシュ島)などに到達し、現地のアイヌ民族に対する支配や毛皮の取り立てを強めていった。こうしたロシアの動きは、長崎のオランダ商館などを通じて断片的に日本にも伝わっていた。

この未知の北方の脅威に対し、仙台藩医の工藤平助は1783年に『赤蝦夷風説考』を著してロシアの南下への警戒と蝦夷地(北海道)開拓の必要性を説き、時の老中・田沼意次の政策に大きな影響を与えた。その後、1792年にロシアの遣日使節ラクスマンが通商を求めて根室に来航したことで、千島列島を伝って南下するロシアの存在は、江戸幕府にとって現実的かつ急務の国防上の脅威となったのである。

江戸幕府の北方探検と実効支配の強化

ロシアの接近に危機感を抱いた幕府は、千島列島および蝦夷地の地理的状況とロシアの動向を正確に把握するため、積極的な探検と調査に乗り出した。まず1785年、田沼意次の命により最上徳内らが派遣され、国後島(くなしりとう)や択捉島(えとろふとう)などの調査を行った。

さらに1798年には、対外強硬派であった老中・松平定信の蝦夷地巡見の意向を受けた近藤重蔵や最上徳内らが再び千島を探検し、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てて、同島が日本の領土であることを対外的に明確に宣言した。翌1799年、幕府は東蝦夷地を仮直轄地(のちに本直轄地)とし、商人である高田屋嘉兵衛に国後・択捉間の航路を開拓させるなどして、千島列島南部の実効支配と防備の体制を急速に固めていった。

日露の軍事的緊張と国境意識の芽生え

19世紀に入ると、千島列島周辺を舞台に日露間の緊張はさらに高まった。1804年のロシア使節レザノフの長崎来航が不調に終わると、その部下であるフヴォストフらが樺太や択捉島を襲撃する事件(文化の露寇)が発生した。これに激怒した幕府は北方警備を厳重にし、1811年には国後島で測量を行っていたロシアの海軍軍人ゴローウニンを捕縛・幽閉するゴローウニン事件が勃発した。

事件はのちに、ロシア側に拿捕された高田屋嘉兵衛の尽力によって両国間の誤解が解け、平和的に解決を見た。しかし、この一連の軍事的緊張と外交的折衝を通じて、かつては曖昧な辺境地帯であった千島列島は、国家の主権が及ぶ明確な「国境」として、日本人の意識に深く刻み込まれることとなった。

近現代における国境画定への影響

江戸時代を通じて幕府が千島列島の探検と開発を進め、アイヌ民族との交易圏を維持したことは、幕末から明治にかけての国境交渉において決定的な意味を持った。1855年に締結された日露和親条約では、択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とすることが定められ、南千島(北方四島)が日本の固有の領土であることが国際的に承認された。

その後、1875年の樺太・千島交換条約によって全千島列島が日本領となったが、第二次世界大戦末期のソ連による侵攻と占領を経て、現在に至るまで北方領土問題という重大な外交課題の舞台となっている。近藤重蔵や最上徳内ら江戸時代の探検家たちの足跡は、今日の日本における領土的主張の歴史的根拠として、依然として極めて重要な意義を持ち続けている。

日本人が行けない「日本領土」 北方領土・竹島・尖閣諸島・南鳥島・沖ノ鳥島上陸記

地図上にしか存在しない「領土」の現実を追い、過酷な旅路の果てにたどり着いた日本の境界線を記録した渾身のルポルタージュ。

詳説日本史図録

教科書『詳説日本史』の内容を、豊富な写真や図解、地図でビジュアル化した超定番の図録。文字だけでは理解しにくい歴史の流れや文化財のディテールが視覚的に頭に入る。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 律令制の七道の一つで、若狭国から越後国など日本海側の中部・北部を管轄した行政区分(道)は何か?
Q. ケンペルが著した日本の地誌で、「鎖国」という言葉を生み出すきっかけとなった書物は何か。
Q. 60日に一度めぐってくる干支の日の夜に、体内の三尸(さんし)の虫が抜け出さないよう、村人が徹夜で神仏を祀って語り明かす集まりは何か?