庚申待(庚申講)

60日に一度めぐってくる干支の日の夜に、体内の三尸(さんし)の虫が抜け出さないよう、村人が徹夜で神仏を祀って語り明かす集まりは何か?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
庚申塔(Wikipedia)

庚申待(庚申講) (こうしんまち / こうしんこう)

江戸時代

【概説】
干支(えと)の庚申(こうしん)の日の夜、体内の虫が天に上って宿主の罪を告げ、寿命を縮めるのを防ぐために徹夜で夜を明かす民間信仰。中国の道教思想に起源を持ち、平安貴族の風習を経て、江戸時代に「講」の組織を通じて全国の庶民へ爆発的に普及した集まり。

「三尸説」と庚申待の起源

庚申待の背景には、中国の道教に由来する三尸説(さんしせつ)がある。この説によると、人間の体内には「三尸」と呼ばれる3匹の虫が住んでおり、60日に一度巡ってくる庚申の日の夜、人間が眠っている間に体から抜け出して天帝(神)のもとへ行き、その人間の日頃の悪事を報告するという。報告を受けた天帝は、その罪の重さに応じてその人物の寿命を削るため、人々は庚申の夜に眠ることなく徹夜をし、三尸の虫が体外へ抜け出すのを防ごうとした。これが庚申待(あるいは庚申会)の始まりである。

日本には奈良時代から平安時代初期にかけてこの信仰が伝わり、当初は天皇や公家などの貴族社会を中心に受容された。平安貴族たちは庚申の夜、囲碁や詩歌、合奏などを楽しみながら、知的なレクリエーション(徹夜の遊び)として夜を明かしていたことが『枕草子』や『源氏物語』などの古典文学からも窺い知ることができる。

江戸時代における「庚申講」の組織化と社会的機能

中世を通じて仏教(密教や日蓮宗など)や神道、修験道と融合したこの信仰は、本尊として青面金剛(しょうめんこんごう)や、神道のサルの神(猿田彦命)を祀る形へと変容していった。さらに江戸時代に入ると、農村や都市の発展に伴って地域住民が共同で組織する「講(こう)」と結びつき、「庚申講」として日本全国の庶民へ広く普及した。

江戸時代の庶民にとって、庚申待は単なる宗教的な禁忌を守る場に留まらなかった。平素の厳しい農作業や労働から解放され、近隣住民が集まって飲食や歓談をともにする、極めて娯楽性の高い社交・コミュニティの場として機能したのである。講のメンバーは、集まった記念や供養として「庚申塔(こうしんとう)」と呼ばれる石碑を盛んに造立した。現在でも日本の各地の道端や寺社の境内に数多く残る庚申塔は、当時の地域社会の結びつきや庶民文化の成熟を示す貴重な歴史資料となっている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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