江戸三大飢饉 (えどさんだいききん)
【概説】
江戸時代中期から後期にかけて発生した、享保・天明・天保の3つの極めて大規模な飢饉の総称。冷害や虫害、火山噴火などの自然災害に端を発し、全国的な米不足と深刻な社会混乱をもたらした。これらは幕藩体制の経済基盤を揺るがし、幕府による三大改革の契機となるなど、近世の政治・社会の転換点となった。
三大飢饉の個別的特徴と発生背景
江戸三大飢饉は、それぞれ異なる時代背景と要因によって発生し、甚大な被害をもたらした。時系列順に、享保の飢饉(1732年)、天明の飢饉(1782年〜1787年)、天保の飢饉(1833年〜1839年)を指す(これに17世紀半ばの「寛永の飢饉」を加えて「江戸四大飢饉」と呼ぶ場合もある)。
最初の享保の飢饉は、徳川吉宗の「享保の改革」期に発生した。西日本一帯が冷夏と大雨に見舞われ、さらにウンカなどの害虫が大量発生したことで米が凶作となった。特に瀬戸内海沿岸の大名領で餓死者が続出した。続く天明の飢饉は、江戸時代最大の飢饉とされる。冷害(やませの影響)や浅間山の大噴火に起因する天候不順が東北地方を直撃し、数10万人に及ぶ餓死者や疫病による死者を出した。最後の天保の飢饉は、大雨や洪水、冷夏が原因で全国規模に及び、米価が異常高騰したことで多くの困窮者を生み出した。
社会の混乱と幕藩体制への構造的影響
これら三大飢饉は、単なる自然災害にとどまらず、幕藩体制の構造的な脆弱性を露呈させる契機となった。米不足は都市部での主食の高騰を招き、米の買い占めを行う商人に怒った民衆による打ちこわしが各地で頻発した。また、農村では領主への年貢減免を求める百姓一揆が激化し、農村社会の荒廃と都市への人口流入が進んだ。
特に天明の飢饉の惨状は、重商主義的な政策を進めていた田沼意次の政権失脚を決定づけ、松平定信による「寛政の改革」へと政治の舵を切らせることとなった。また、天保の飢饉の最中には、大坂の元与力である大塩平八郎が困窮民の救済を掲げて挙兵する大塩平八郎の乱(1837年)が発生し、幕府支配の足元を揺るがした。これに対処するために行われたのが水野忠邦による「天保の改革」である。このように、三大飢饉は幕府に政策の転換を余儀なくさせるとともに、幕藩体制そのものの限界を人々に強く意識させる歴史的要因となった。