大仏様(天竺様) (だいぶつよう(てんじくよう)
【概説】
鎌倉時代初期に、僧の重源が南宋から導入した寺院建築様式。太い木材を使用し、柱を貫(ぬき)でつなぐなどの技法を多用して力強さを表現する、豪放で雄大な構造が特徴である。東大寺南大門などに代表され、中世以降の日本の木造建築技術に多大な影響を与えた。
導入の背景と東大寺の復興
1180年(治承4年)、平重衡による南都焼討によって、東大寺や興福寺などの諸大寺は甚大な被害を受けた。特に東大寺は大仏殿をはじめとする主要伽藍が灰燼に帰し、その再建は国家的な急務となった。この大事業の責任者である大勧進職に任命されたのが、3度の入宋経験を持つ僧の重源(ちょうげん)である。
重源は、当時の中国(南宋)の最新の建築技術を取り入れ、巨大な木造建築を短期間かつ合理的に再建する手法を採用した。これが後に大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる建築様式である。かつてはインド(天竺)由来の様式と誤認され「天竺様」と呼ばれていたが、実際には中国南部の福建省周辺の地方様式をベースにしているとされ、近代以降の建築史研究により「大仏様」という呼称が定着した。
合理性と力強さを備えた建築的特徴
大仏様の最大の特徴は、構造の合理性と、そこから生み出される豪放で力強い意匠にある。従来の日本の和様建築では、柱の上に組物を置いて屋根を支えていたが、大仏様では貫(ぬき)と呼ばれる水平の横木を柱に貫通させる形で多用し、建物の全体的な剛性と耐震性を飛躍的に高めた。
また、組物を柱の途中に直接挿し込む挿肘木(さしひじき)という技法を用い、天井を張らずに屋根裏の構造材をそのまま見せる「化粧屋根裏」としている。屋根を支える垂木(たるき)には、隅に向かって放射状に広がる扇垂木(おうぎだるき)が用いられることが多い。これらの技法は、装飾性を極力排して構造材そのものの力強さを露出させるものであり、巨大な部材を用いた雄大な空間演出を可能にした。
代表的な建造物
大仏様の代表的な遺構として最も有名なのが、1199年(正治元年)に上棟された東大寺南大門である。高さ約25メートルにも及ぶこの国内最大の山門は、現在も鎌倉彫刻の傑作である金剛力士像を安置し、大仏様の力強い構造美を現代に伝えている。
また、重源が勧進の拠点として建立した兵庫県の浄土寺浄土堂(1192年建立)も、大仏様を代表する建築物である。浄土堂は快慶作の巨大な阿弥陀三尊像を安置するための堂であり、堂内には柱を少なくし、貫と挿肘木によって広大な無柱空間を作り出している。夕日が背面の蔀戸(しとみど)から差し込み、朱塗りの堂内と仏像を黄金色に照らし出す緻密な光の演出も、重源の構想と大仏様の空間構成が見事に結実した結果である。
大仏様の衰退と後世への影響
大仏様は、巨大な木材を組み上げて東大寺を迅速に再建するという、極めて特殊なプロジェクトに最適化された様式であった。そのため、1206年(建永元年)の重源の没後、純粋な大仏様による巨大建築の造営は急速に衰退していくこととなる。
しかし、大仏様がもたらした「貫」による構造補強の技術は、日本の木造建築に革命をもたらした。その後、伝統的な「和様」や、やや遅れて伝来した「禅宗様(唐様)」の建築に大仏様の技術が部分的に取り入れられ、鎌倉時代後期には折衷様(せっちゅうよう)と呼ばれる新たな様式が生み出された。大仏様そのものは短命な建築様式であったが、その合理的な構造技術は日本建築の耐震性や耐久性を飛躍的に向上させ、近世に至るまで神社仏閣の建築手法に決定的な影響を与え続けたのである。