中男(少丁) (ちゅうなん/しょうてい)
【概説】
律令制下の日本において、17歳から20歳までの青年男子を指す課税・労働上の区分。国家の基本労働力である「正丁」の手前の世代にあたり、税や労役の負担が軽減されていた。
律令制における年齢区分と「中男」の定義
大宝律令(701年)によって整備された律令国家では、人民を戸籍に登録して国家が直接把握し、年齢や性別、身分に応じてきめ細かく課税・労役の区分を設定した。このうち、17歳から20歳までの青年男子を中男(ちゅうなん)と呼んだ。
中男は、国家の最大の財政基盤であり軍事力でもある21歳から60歳までの男子(正丁)に至る前段階の世代として位置づけられた。その後、天平宝字元年(757年)の養老律令の施行に際して、兵役や税負担の緩和を目的として年齢区分が引き上げられ、18歳から21歳までがこの区分に該当するようになり、呼称も唐風の少丁(しょうてい)へと改められた。
中男の税負担と「中男作物」の役割
中男は、本格的な労働力としての課税に耐えうる正丁に比べて、税負担が大きく軽減されていた。具体的には、平城京などでの都城建設や地方官衙での肉体労働に駆り出される雑徭(ぞうよう)が、正丁(年間60日)の半分である30日以内に制限されていた。また、労役の代替として布などを納める「庸」や、最たる負担であった「兵役」は免除されていた。
最も大きな特徴は、国家への納付物である調の負担方法である。大宝律令下では、中男の調は正丁の4分の1程度とされていた。しかし、養老律令が施行される過程で、中男に対しては定額の調の代わりに、その地域の特産物(紙、漆、繊維、染料、器物など)を納めさせる中男作物(ちゅうなんさくもつ)の制度が定着した。これは、中央政府が必要とする多様な手工業品や実用的な資材を、地方の青年男子の労働力を利用して効率的に確保するための仕組みであった。
国家支配の弛緩と「中男」の形骸化
中男(少丁)の制度は、戸籍によって人民一人ひとりの年齢と性別が正確に把握されていることを前提としていた。しかし、奈良時代後期から平安時代にかけて、調・庸や兵役といった重い負担を避けるため、戸籍上で性別を「女」と偽る「偽籍(ぎせき)」や、年齢を偽って正丁を中男や老丁(高齢者)に見せかける不正が横行するようになった。
このような階層移動や偽装の常態化は、政府が把握する正丁の激減を招き、律令制に基づく税収システムを崩壊させる要因となった。結果として、青年男子を中男(少丁)として段階的に課税する精緻な年齢区分制度は機能しなくなり、10世紀の王朝国家体制への移行期には、戸籍による人別支配から、土地(名田)を対象に課税する体制へと国家の仕組み自体が大きく変容していくことになった。