雑徭 (ざつよう)
【概説】
日本の律令制において、公民に課された地方での労働奉仕(労役)の義務。国司の命令によって、地方の国衙(国役所)の修築、道路や河川の土木工事、官衙の雑務などに使役された。
律令財政における「地方財源」としての役割
大宝律令(701年)および養老律令(718年)によって体系化された律令税制において、税は大きく「中央財源」と「地方財源」に分かれていた。都へと送られる租・庸・調が中央政府の財政を支えたのに対し、雑徭は地方行政の維持・経営を支える最大の労働力、すなわち「地方財源」として位置づけられていた。
負担の対象は主に21歳から60歳までの良民男性(正丁)であり、年間で最大60日を限度として使役された。なお、61歳から65歳までの次丁(老丁)は正丁の2分の1(30日)、17歳から20歳までの中男(少丁)は4分の1(15日)の負担とされ、年齢や身体状況に応じた傾斜配分がなされていた。
農民への過酷な負担と自弁の原則
雑徭が農民(公民)にとって極めて過酷であった最大の理由は、「自弁」の原則にあった。雑徭に従事する期間中、農民は自らの食料(糧食)や衣服、さらには作業道具までも自己負担で用意して赴かねばならなかった。これは実質的な生活費の二重負担であり、農民の家計を著しく圧迫した。
また、国司による使役は農繁期(春の田植えや秋の収穫期)を避けることが原則とされていたが、実際には国司の都合で急な工事に動員されることも多く、農業経営に深刻な打撃を与えた。さらに、土木工事に伴う事故や過酷な労働環境により、動員先で命を落とす農民も少なくなかった。
律令制の変容と雑徭の形骸化
奈良時代中期以降、重すぎる税負担から逃れるために、農民が戸籍の性別を「女」と偽る偽籍や、本籍地を離れて他国へ逃れる浮浪・逃亡が相次いだ。これにより、雑徭を課す基盤となる正丁の数が激減することとなる。
政府は事態を重く受け止め、757年(天平宝字元年)には橘奈良麻呂の変ののちの宥和政策の一環として、正丁の雑徭制限日数を年間60日から30日へと半減させる改革を行った。しかし、平安時代に入ると受領(現地に赴任する国司)の権限が強化され、制限日数を無視した超過労働や私的な使役が横行するようになり、律令制的な戸籍に基づく雑徭の体系は崩壊へと向かった。その後、中世の荘園公領制においては、名主らに対して課される「国役(くにとが)」や「夫役(ぶやく)」へと形を変えて継承されることとなる。