仕丁 (しちょう)
【概説】
古代の律令制下において、地方から中央(朝廷)へ徴発された肉体労働義務。50戸からなる「里(のちの郷)」ごとに2人の正丁が選ばれ、3年間にわたって都の諸官司で無償の雑役に服した。国家機構を維持するための基礎的な労働力として重宝されたが、民衆にとっては極めて重い負担であった。
律令体制における仕丁の仕組みと地域社会の負担
大宝律令の制定によって確立された税制・労働徴発制度において、仕丁は国家のインフラと中央官司を維持するための実務労働力として位置づけられた。賦役の基準となる戸籍に基づき、50戸を一単位とする「里(のちに郷と改称)」から、2人の正丁(21歳から60歳までの健康な男子)が選ばれて都へ送られた。彼らの勤務期間は3年間に及び、その間は無償で労働に従事した。
仕丁の制度で特徴的なのは、中央での勤務期間中に必要な食糧や衣服、往復の旅費などの経費が、仕丁を送り出した郷の住民たちによって共同負担された点である。この負担は「仕丁ト(しちょうと)」(仕丁粮とも呼ばれる)として同郷の戸に割り当てられた。したがって、仕丁の徴発は直接選ばれた個人だけでなく、送り出す地方社会全体にとっても多大な経済的負担となっていた。
都における具体的役割と過酷な労働実態
都に上った仕丁たちは、宮門の警備を担当する衛門府をはじめ、太政官や各種の省、内裏などの諸官司に配属された。そこでの具体的な役務は、官庁の清掃、物資や薪炭の運搬、使者の任務、あるいは各種工作など、官僚機構の末端を支える肉体労働や雑役が中心であった。
慣れない土地での生活と過酷な労働は、地方から出てきた仕丁たちを疲弊させた。さらに、名目上は郷から供給されるはずの仕丁ト(食糧など)が滞ることも多く、都で飢えや病に苦しむ者が後を絶たなかった。勤務中に死亡する者も少なくなく、都の治安を乱す浮浪者となるケースもあった。このように、仕丁は華やかな律令国家を陰で物理的に支える、悲劇的な存在でもあった。
律令制の動揺と仕丁の変容
仕丁をはじめとする過酷な労役や兵役、重い租庸調の負担は、民衆の抵抗を招く直接的な要因となった。奈良時代後期から平安時代にかけて、仕丁に選ばれることを避けるために、戸籍の性別や年齢を偽る「偽籍」や、居住地を離れて身を隠す「浮浪・逃亡」が急増した。これにより、地方から計画通りに仕丁を徴発することは極めて困難になっていった。
この人的資源の枯渇に対し、朝廷は実物の労働力を動員することを諦め、代わりに銭貨や米、布などを納めさせる代銭納(仕丁銭・仕丁米の徴収)へと制度を移行させていった。これにより、実質的な肉体労働としての仕丁制度は徐々に衰退し、平安時代中期以降の律令制の形骸化(王朝国家体制への移行)にともなって、完全に消滅することとなった。