運脚 (うんきゃく)
【概説】
律令制下において、地方の農民(正丁)が調や庸などの税を都まで自力で運搬した過酷な労役。往復の旅費や食料がすべて自己負担であったため、農民を困窮させ、律令体制崩壊の一因となった交通・税制上の制度。
律令体制における「運脚」の仕組みと役割
飛鳥時代から奈良時代にかけて整備された大宝律令および養老律令のもとで、日本の統治システムは中央集権的な民衆支配を確立した。その財政を支えたのが、租・庸・調に代表される税制である。このうち、米を納める「租」は地方の国衙の財源(正税)となったが、絹や布を納める「庸」、および地方の特産品を納める「調」は、中央政府(都)の財源として平城京などの都へ直接送る必要があった。
この庸や調を都まで送り届ける役割を課されたのが、地方の農民(21〜60歳の健康な男性である正丁)から徴発された運脚である。運脚は、郡司などの地方官の引率のもと、物資を背負うか馬に載せて、徒歩で都を目指した。これは単なる輸送手段ではなく、農民に義務づけられた「労役」の一種として位置づけられていた。
民衆を苦しめた「自己負担」の過酷な実態
運脚が極めて過酷であった最大の理由は、往復の道中に必要な食料(道糧)や衣服などの費用が、すべて農民自身の自己負担(自弁)であった点にある。東国などの都から遠く離れた地域からの運脚は、往復に数ヶ月を要することも珍しくなかった。そのため、出発時に用意した食料が途中で底をつき、飢えや疲労、疾病によって行き倒れ、道端で命を落とす者が後を絶たなかった。
万葉集の歌人である山上憶良が著した『貧窮問答歌』や、各地の防人・運脚の悲哀を歌った防人歌には、重税と運脚の負担によって家庭が崩壊していく農民の窮状がリアルに描かれている。仮に無事に都へたどり着き、税を納めることができたとしても、復路の食料が残っておらず、帰郷できずに都の周辺で浮浪者(浮浪・逃亡)となるか、そのまま行き倒れるケースが多発した。
運脚の崩壊と律令制の変容
このあまりにも過酷な運脚の負担は、農民たちの間に「逃亡」や「偽籍(戸籍を偽って男を女と偽り、課税を逃れること)」を横行させる直接的な原因となった。これにより、律令制が前提としていた「公地公民制」や戸籍に基づく人身支配は急速に動揺していくこととなる。
平安時代に入ると、農民に直接物資を運ばせる運脚の制度は事実上破綻した。代わって、国司が租税の徴収と都への送入を請け負うシステム(国衙領の形成)へと移行し、物資の輸送も専門の運送業者や馬借などの動員、あるいは水運の活用へとシフトしていく。運脚の終焉は、古代律令国家が「個々の農民を直接支配する仕組み」から「土地を通じて徴税する中世的な国家体制(王朝国家体制)」へと変容していく過程を象徴している。