里(郷) (り(ごう)
【概説】
律令制下における地方行政組織の最末端の単位。大宝律令によって「国・郡・里」の地方支配体制(国郡里制)が確立され、原則として50戸を「1里」として編成した行政区画。奈良時代に「郷」と改称され、のちの時代における地方社会の基礎的な地理単位となった。
国郡里制と五十戸一里の原則
大化の改新以降、律令国家の形成過程で整備が進められた地方行政制度は、701(大宝元)年の大宝律令制定にともない国郡里制(こすぐんりせい)として完成した。地方は国司が治める「国」、郡司が治める「郡」に分けられ、その下部に最末端の行政単位として「里」が設置された。
里を編成する基準は、原則として50戸で1里とする「五十戸一里(ごじゅっこいちり)」の原則に基づいていた。この「戸」とは、血縁関係を超えて行政的に編成された「編戸(へんこ)」であり、自然発生的な集落(共同体としての村落)とは必ずしも一致しない、国家による人身支配・租税徴収のための人工的な行政区画であった。各里には、在地の有力者から任命された里長(りちょう)が置かれ、戸籍・計帳の作成、調や庸などの租税徴収、兵士の徴発といった末端の実務を担った。
「郷里制」の導入と「郷」への統合
律令国家による民衆支配の強化にともない、地方行政の末端組織は改編を余儀なくされた。715(霊亀元)年、従来の「里」を「郷」と改称し、さらにその下に新たな末端単位として「里」を複数置く郷里制(ごうりせい)が施行された。これにより、1郷(旧1里=50戸)の中に、10〜25戸程度の小さな「里」が2〜3箇所作られることになり、国家による民衆把握の細分化が試みられた。
しかし、この二重の末端組織は、実務上の煩雑さや在地社会の実態との乖離から長続きしなかった。740(天平12)年には、細分化された「里」が廃止され、行政単位は「郷」へと一本化された。この郷の下に複数の自然村落を包括する体制は「郷郷制(ごうごうせい)」または「郷制」と呼ばれ、これ以降、中世にいたるまで「郷」は地方社会の重要な地域区分として定着していくことになる。
租税徴収の動揺と行政区画の形骸化
里(郷)の制度は、戸籍によって人民を把握し、口分田を与えて租税を課す「個別人身支配」を前提としていた。しかし、8世紀半ばを過ぎると、過酷な負担から逃れるための浮浪や逃亡、戸籍上の性別を偽る「偽籍」が急増し、行政的な「戸」の維持が困難となった。
これにより、50戸を基準とする郷の枠組みは実態を失い、次第に土地(班田)の所在を示す地理的な境界や、自然村落を基盤とする地域区分へと性質を変えていった。里(郷)の変遷は、律令制が目指した強力な中央集権的支配が、日本社会の在地の現実に適応していく過程を象徴している。