摂津

重要度
★★

摂津 (せっつ)

7世紀後半〜1871年

【概説】
五畿(畿内)の一つで、現在の大阪府北西部から兵庫県南東部にかけての地域に相当する令制国。外交・交通の要衝である難波津を擁し、古代から政治・経済・軍事における極めて重要な拠点として機能した地である。

古代日本の玄関口としての「難波津」と難波宮

摂津国の歴史的実質は、古くから難波(なにわ)と呼ばれた地域を中心として展開した。瀬戸内海の東端に位置し、淀川や大和川の河口にあたるこの地には、古代の国際港である難波津(なにわづ)が整備された。大和政権はここを外港として大陸や朝鮮半島からの使節を迎え、また遣隋使や遣唐使の派遣基地とした。さらに、大化の改新(645年)ののちには孝徳天皇によって難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)が造営され、前期難波宮として律令国家建設の象徴的な首都となった。このように、摂津は古代国家の形成期において、海外交渉と国内交通の双方を結ぶ最重要地域であった。

特別行政官庁「摂津職」の設置と令制国の確立

大宝律令(701年)などの律令制の整備にともない「摂津国」が正式に成立すると、この地には通常の国司(国衙)ではなく、摂津職(せっつのしき)という特別な行政組織が置かれた。これは都(京)を治める左右京職や、九州の外交・防衛を担う大宰府と並ぶ重要な特別官庁であり、副都としての難波宮の管理、国際港としての難波津の整備、さらには外国使節の接遇や治安維持を直接担った。一国に対して「国司」ではなく「職」が置かれた例は、京を除けば摂津国のみであり、朝廷がいかにこの地を重視していたかが窺える。のちに延暦12年(793年)に摂津職は廃止され、通常の国司へと移行したものの、その重要性が失われることはなかった。

中世・近世における物流と軍事の結節点への発展

平安時代末期に平清盛が大輪田泊(おおわだのとまり)(現・兵庫県神戸市)を日宋貿易の拠点として改修すると、摂津国は再び国際貿易の表舞台へと躍り出た。中世を通じて兵庫津や、淀川河口の渡辺津などは物流の要衝として栄えた。戦国時代には、一向一揆の拠点となった石山本願寺や、織田信長による摂津平定戦など、軍事上の激戦地となった。豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に大坂城を築いたことは、この地が日本全国の政治・経済の中心地となる決定的な契機となった。江戸時代に入ると、摂津は「天下の台所」と称された巨大商業都市・大坂を擁し、西国街道や海路(樽廻船・菱垣廻船)を通じて日本全国の物資が集中する物流の心臓部として機能した。

古代難波と難波津の研究

難波宮を中心とした古代都市の変遷と、水運の拠点としての難波津の役割を多角的に解き明かす歴史学の重厚な研究書。

大阪府の歴史散歩 (上) (歴史散歩 27)

大阪府内に残る歴史遺産や史跡を網羅し、土地の記憶を辿りながら街歩きを楽しめる必携のガイドブック。

日本史一問一答(ランダム)

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Q. 氏(うじ)と呼ばれる豪族の集団において、一族を統率し、氏神の祭祀を主宰した首長を何というか?
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