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  • 南海道

    南海道 (なんかいどう)

    7世紀後半〜

    【概説】
    古代日本における広域地方行政区分である五畿七道の一つ。紀伊半島から海路を経て四国地方へと至る交通路、およびその沿線に位置する紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の6カ国の総称である。律令体制下における中央と地方を結ぶ大動脈として、行政・交通の両面で重要な役割を果たした。

    古代律令制における「五畿七道」と南海道の構成

    飛鳥時代の天武・持統朝から奈良時代の大宝律令制定(701年)にかけて、日本は中央集権的な律令国家体制の構築を進めた。その際、全国の行政区分および地方への交通網として整備されたのが五畿七道(ごきしちどう)の制である。南海道はその「七道」の一角を占める区分であった。

    南海道が管轄したのは、畿内に隣接する紀伊国(和歌山県・三重県南部)、淡路島に置かれた淡路国(兵庫県)、そして四国に位置する阿波国(徳島県)、讃岐国(香川県)、伊予国(愛媛県)、土佐国(高知県)の計6カ国である。これらの諸国には中央から国司が派遣され、中央政府への徴税や統治を行う行政単位として機能した。

    「駅船」が配備された海路主体の交通網

    南海道の最大の特色は、東山道や北陸道などの他の道が陸路主体であったのに対し、海路を主たる移動経路として含んでいた点である。都(畿内)から紀伊半島西岸の由良港(現在の和歌山県由良町)などへ南下したのち、船で淡路国を経由し、四国の阿波や讃岐へと渡るルートが公式の官道(駅路・伝路)とされた。

    律令制下の交通制度である駅制(えきせい)においては、陸上の移動のための「駅馬(やくば)」だけでなく、海上移動のための「駅船(えきせん)」が南海道の要所に配備された。これは紀伊水道や明石海峡といった海上交通の難所を安全に往来するためのもので、南海道独自のインフラであった。また、このルートは瀬戸内海の物資輸送とも深く結びついており、難波津や大輪田泊などの港湾と連動して、西日本から都へ税(調や庸など)を運ぶ重要ルートとしても機能した。

    軍事・政治的要衝としての歴史的変遷

    南海道は、都に近接する紀伊から西国へとつながる地政学的な位置にあり、歴史を通じてしばしば軍事・政治の舞台となった。平安時代中期に発生した承平・天慶の乱においては、藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、南海道の伊予国の国府を襲撃するなど、一帯が激しい戦乱に巻き込まれた。

    平安時代後期から中世にかけては、紀伊国の高野山熊野三山への信仰(高野参詣・熊野詣)が歴代の上皇や貴族、さらには庶民の間で爆発的に流行し、南海道の一部は信仰の道としても栄えた。戦国時代から近世にかけても、瀬戸内海から大坂湾をにらむ軍事・交易の要衝として、紀伊国(後の徳川御三家・紀州藩)や阿波国(蜂須賀氏・徳島藩)などは、幕藩体制下においても極めて重視される地域であり続けた。

  • 山陽道

    山陽道

    7世紀後半~

    【概説】
    古代の律令国家によって整備された、本州西部の瀬戸内海側(周防・長門・石見などを除く瀬戸内沿岸諸国)を通る行政区分および幹線道路。五畿七道の中で唯一、最重要路線である「大路(たいろ)」に指定され、都と九州の大宰府を結ぶ国家の基幹道路として機能した。

    古代律令国家における唯一の「大路」と駅制

    飛鳥時代から奈良時代にかけて律令国家が形成されると、都を中心に全国を結ぶ交通網「七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)」が整備された。この七道は単なる道路ではなく、行政区画の名称でもあった。各道路には重要度に応じて「大路」「中路」「小路」の格付けがなされたが、その中で山陽道だけが最高格の「大路」に指定された。

    大路である山陽道には、約16キロメートル(30里)ごとに駅家(うまや)が置かれ、そこには他道よりも格段に多い20頭の駅馬(えきば)が常備された。これにより、中央からの緊急の使者(使符を持った官人)が駅馬を乗り継ぎ、迅速に西国へと情報や命令を伝達できる体制が整えられていた。

    外交・軍事の枢軸と「遠の朝廷」大宰府への大動脈

    山陽道が「大路」として最重視された最大の理由は、大陸外交の窓口であり、国防の要衝でもあった九州の大宰府(遠の朝廷)へと直接つながる唯一の陸路だったからである。当時の日本は、唐や新羅などの東アジア情勢に対応するため、大宰府との迅速な意思疎通が不可欠であった。また、朝鮮半島や中国大陸からの使節(遣唐使の帰国使や新羅使など)が上洛する際にもこの山陽道が使用され、国家の威信を示すための「公式ルート」としても美しく整備されていた。

    さらに、地理的に瀬戸内海の水運と密接に並行していたことも特徴である。基本的には陸路として整備されながらも、瀬戸内海の穏やかな海路と役割を補完し合うことで、物資の輸送や防人の移動、軍事行動において極めて高い効率性を発揮した。

    律令制崩壊後の変遷と「西国街道」への継承

    平安時代中期以降、律令体制が弛緩・崩壊に向かうと、国家管理による駅制は衰退していった。しかし、山陽道自体のルートは交通の要衝として維持され続けた。中世の武士の時代においても、京都から鎌倉、さらには西国へと向かう軍勢の移動路として重要視された。

    近世の江戸時代になると、幕府によって主要街道の再編が行われ、山陽道は「西国街道(さいごくかいどう)」とも呼ばれるようになり、五街道(東海道など)に準ずる重要な脇往還として、多くの大名の参勤交代や庶民、旅人の往来で再び大きな繁栄を見せることとなった。このように、古代に構築された交通インフラとしての山陽道は、時代を超えて日本の東西を結ぶ大動脈であり続けたのである。

  • 当色婚

    当色婚 (とうしきこん)

    701年〜

    【概説】
    律令制において、良民と賤民のあいだの通婚を禁止し、同一の身分階層内でのみ婚姻を認める法規定。大宝律令や養老律令の「戸令」に定められ、厳格な身分秩序を維持するための基盤となった。国家による人民支配と税収確保を目的とした、古代の身分固定化政策の一つである。

    律令国家が定めた厳格な「良賤」区分と婚姻の制限

    日本の律令制下においては、全人民が法的に良民(りょうみん)賤民(せんみん)の二つの身分に大別されていた。これを「良賤の法」と呼ぶ。当色婚(とうしきこん)の「色」とは「身分」や「種類」を意味し、同じ身分に属する者同士の婚姻を義務づけた規定である。大宝律令や養老律令の「戸令(こりょう)」において、良民は良民と、賤民は賤民と同じ身分同士でのみ婚姻することが定められた。これは、身分間の境界を明確に保ち、社会階層の混濁を防ぐための基本的な法秩序であった。

    「五色の賤」と身分固定化の意図

    特に賤民は「五色の賤(ごしきのせん)」と呼ばれる5つのグループ(陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢)に細分化されており、原則としてそれぞれのカテゴリー内での通婚が求められた。このような制限が設けられた背景には、古代国家による税収(租庸調)および労働力の確保という切実な要請があった。良民は国家に対して納税や兵役の義務を負う直接の支配対象であり、国家の財政基盤であった。これに対し、賤民は課税を免除される代わりに、政府や貴族・豪族の使役労働力、あるいは私有財産として位置づけられていた。もし良民と賤民が自由に婚姻し、その境界が曖昧になれば、国家の課税対象である良民の人口動態が不安定になり、財政維持に重大な支障をきたす恐れがあったため、当色婚によって身分の固定化が図られたのである。

    良賤違犯への対処と制度の解体

    当色婚の規定に違反して良民と賤民が不法に通婚した場合、そこから生まれた子供の身分については「一子賤なればすなわち賤とす」という原則が適用され、子はより低い身分である賤民とされた。このルールは良民に対する強い警告として機能したが、奈良時代後期から平安時代初期にかけて、重税に苦しむ良民が意図的に賤民と通婚して課税から逃れようとするケースや、良民の逃亡・浮浪が相次ぎ、戸籍制度そのものが動揺し始めた。こうした社会の変化に伴い、政府は良民の減少を防ぐために「母が良民であれば子は良民とする」などの妥協的措置を余余儀なくされていく。結果として、当色婚の規定は有名無実化し、平安時代中期には当色婚の前提であった公私奴婢の制度そのものが実質的に消滅し、古代の良賤制度は解体へと向かうこととなった。

  • 五色の賤

    五色の賤 (ごしきのせん)

    701年

    【概説】
    律令制下の日本における、法的に「賤民(せんみん)」と位置づけられた5つの階層の総称。天皇や国家に帰属する公有の「陵戸(りょうこ)」「官戸(かんこ)」「公奴婢(くぬひ)」と、貴族や豪族などの私有に属する「家人(けにん)」「私奴婢(しぬひ)」に分類される。戸籍に基づく一元的な人民支配を確立するため、良民(一般平民)との厳しい身分差別の壁が設けられた。

    律令法が規定した5つの賤民階層とその格差

    大宝律令(701年)の制定によって整備された良賤(りょうせん)制度において、全人民は「良民」と「賤民」の2つに大別された。そのうちの賤民に属する5つの身分が「五色の賤」である。

    五色の賤は、その従属先によって「公有」と「私有」に分かれ、それぞれ法的な権利や待遇に差が設けられていた。公有の賤民のうち、陵戸は諸陵司(朝廷の陵墓を管理する役所)に属して天皇・皇族の墓の守衛にあたった。官戸は官司(役所)に属して雑役に従事した。また、公奴婢は官府に直接所有されて様々な使役に従事した。一方、私有の賤民のうち、家人は貴族や豪族などの豪家に仕えて雑務に従事し、私奴婢は個人に所有されて労働を強制された。これらは社会的に賤視されたが、特に公奴婢と私奴婢は最も地位が低く、売買や相続の対象とされるなど、人間ではなく「財産(資財)」として扱われた。

    また、これら5つの身分の間には待遇の差も存在した。陵戸・官戸・家人の3者は自ら「戸」を構えることが許され、良民と同額の口分田を支給されたが、公奴婢・私奴婢は「戸」の形成が認められず、口分田の支給額も良民の3分の1に留められていた。

    良賤支配の論理と国家の思惑

    律令国家がこのような身分制度を設けた最大の目的は、社会的な秩序の維持と、国家財政の基盤である良民(課口)の確保にあった。良民からは租・庸・調や兵役などの重い負担が徴収されたが、賤民の多くはこれらの課税を免除されていた。もし良民が没落して賤民に流入すれば、国家の税収が激減することになるため、朝廷は両者の区分を厳格に保とうとした。

    そのための代表的な法規定が「良賤不婚の法(りょうせんふこんのほう)」である。これは原則として良民と賤民の婚姻を禁止するものであった。また、もし不法に良民と賤民の間に子供が生まれた場合、その子供は身分の低い方の籍に編入されるという「賤者を生めば賤とす」の原則が貫かれた。このルールにより、一度賤民の血が混ざればその子孫も自動的に賤民となり、国家は良民への復帰を厳しく制限して、身分の固定化を図った。

    律令制の変容と「五色の賤」の消滅

    奈良時代後期から平安時代初期にかけて、律令体制そのものの形骸化に伴い、良賤制度も行き詰まりを見せるようになった。過酷な重税から逃れるため、多くの良民が浮浪や逃亡を繰り返し、中には有力な貴族のもとで「家人」や「私奴婢」となることで課税を免れようとする者が急増した。これは国家にとっては税収の減少、貴族にとっては私的財産の拡大を意味し、律令国家の根幹を揺るがす事態となった。

    事態を重く見た朝廷は、789年(延暦8年)に良賤間の婚姻から生まれた子供を良民とする法改正を行い、「賤者を生めば賤とす」の原則を事実上廃止した。これにより賤民の人口増加は抑えられ、むしろ良民の確保へと舵が切られることとなった。さらに、平安時代初頭の9世紀初頭には、国家管理の負担が大きくなっていた公奴婢の多くが解放されて良民に編入された。こうして、10世紀初頭までに「五色の賤」を支えた戸籍制度(班田収授の法)が完全に崩壊すると、五色の賤という法的な身分区分は実質的に消滅し、中世的な新しい身分秩序へと移行していくこととなった。

  • 賤民(飛鳥時代)

    賤民(飛鳥時代) (せんみん)

    7世紀末〜

    【概説】
    律令体制下の身分制度において、売買や譲渡の対象となるなど、人身の自由を厳しく制限された最下層の人々の総称。一般の領民である「良民(りょうみん)」と峻別され、国家や貴族、豪族などの労働力として支配された。飛鳥時代後半の律令編纂を通じて法的に定義され、いわゆる「五色の賤(ごしきのせん)」に細分化された。

    良賤制の導入と「五色の賤」

    飛鳥時代後期、天武・持統朝から大宝律令の制定(701年)に至る過程で、唐の制度を模倣した本格的な律令体制が構築された。この過程で導入された身分支配の根幹が、人民を「良民」と「賤民」に大別する良賤制(りょうせんせい)である。律令法において、賤民は「五色の賤」と呼ばれる5つのグループに分類され、それぞれの職掌や法的地位が細かく規定された。

    五色の賤は、官有(国家に属する)の「陵戸(りょうこ)」「官戸(かんこ)」「公奴婢(くぬひ)」の3種と、私有(個人や豪族に属する)の「家人(けにん)」「私奴婢(しぬひ)」の2種に分けられる。陵戸は天皇・皇族の陵墓を守衛・管理する者、官戸は官司に所属して雑役に従事する者、公奴婢は官有の奴隷である。一方、家人は貴族や豪族の家に隷属して雑務に服するが売買は禁止された者、私奴婢は所有者の完全な財産として扱われ、売買や譲渡、相続の対象となった最下層の者である。

    法的制限と不平等な実態

    賤民は良民と比較して、極めて不平等な扱いを受けた。戸籍には良民とは区別されて記載され、原則として良民と賤民の結婚(良賤通婚)は禁止された。もし良民と賤民の間に子が生まれた場合、その子は「賤は賤に従う」という原則に基づき、自動的に賤民の身分とされた。この原則は、労働力および財産としての賤民を維持・確保するための国家的な措置であった。

    また、班田収授法において良民には口分田が与えられたが、賤民のうち陵戸、官戸、家人には良民と同額の口分田が与えられたのに対し、最も制約の強かった公奴婢・私奴婢に与えられた口分田は良民の3分の1に過ぎなかった。さらに、私奴婢は私有財産として扱われたため、所有者による使役や処分に対して法的な保護をほとんど受けることができなかった。

    良賤制の解体と歴史的意義

    良賤制は、中央集権的な律令国家が人民を一元的に把握し、支配するための身分秩序として機能した。しかし、飛鳥時代から奈良時代を通じて、良民が重い税負担(租・庸・調や防人などの兵役)から逃れるために、あえて税負担の軽い貴族の家人や私奴婢へと身分を偽る(偽籍)ケースが相次いだ。これにより、良民の減少と国家財政の悪化という問題が生じることとなった。

    こうした矛盾を解消するため、平安時代初期の789年(延暦8年)には良賤間の婚姻によって生まれた子供をすべて良民とする法令が出されるなど、段階的に良賤の区別は曖昧になっていった。最終的に、10世紀初頭の律令制の崩壊とともに奴婢制度自体が消滅し、古代の賤民制度は形骸化していくこととなった。飛鳥時代に成立した賤民制度は、日本における初期の階級社会を法的に方向づけた重要な制度であったと言える。

  • 品部・雑戸

    品部・雑戸 (ともべ・ざっこ)

    5世紀頃〜8世紀末

    【概説】
    ヤマト政権期の部民制に由来し、律令国家のもとで専門的な技術奉仕を義務付けられた技術者集団。良民に属しながらも世襲で武器製造や特殊な手工業などに従事し、一般の公民とは区別された半自由民的な存在であった。

    1. ヤマト政権の部民制から律令制への継承と再編

    律令制が成立する以前のヤマト政権期には、大陸からの渡来人を含め、優れた技術を持つ人々が部民(べみん)として組織され、王権や豪族に奉仕していた。大化の改新(645年)によって「公地公民制」が宣言されると、これら部民の旧来の支配関係は一度解体された。しかし、国家の運営や宮廷生活に必要不可欠な専門的技術(武器製造、染織、造営など)を維持・確保するため、新政府は一部の技術者集団を国家の官司(役所)に直属する形で再編した。これが品部(ともべ / しなべ)および雑戸(ざっこ)の始まりである。

    2. 品部・雑戸の職能と身分的特徴

    品部と雑戸は、いずれも律令制の身分秩序においては「良民」に分類されていたが、実態は一般の公民(課口)とは大きく異なる制約の多いものであった。彼らは、一般の公民のように口分田を与えられて調や庸といった租税を納める代わりに、世襲で特定の技術奉仕や製品の納入を義務付けられていた。この義務は一代限りのものではなく世襲とされたため、婚姻や移転の自由も厳しく制限され、実質的には「良賤の間(中間的身分)」と呼ばれる隷属的な地位に置かれていた。

    両者の主な違いは、配属先と業務内容にある。品部は主に大蔵省や宮内省などに属し、織物や陶器、木工、さらには鷹の飼育といった朝廷の需要に応える多様な手工業に従事した。これに対し、雑戸は主に兵部省などの軍事部門に属し、甲冑や弓矢、刀剣などの武器製造、あるいは製鉄や鋳造といった高度な軍事・工業技術を担わされた。特に国家機密に直結する武器製造に従事した雑戸は、品部よりもさらに厳しい管理と制限の下に置かれていた。

    3. 律令体制の変容と「雑戸」の解放

    奈良時代中期以降、律令国家による官営手工業体制は徐々に機能不全に陥っていった。品部や雑戸の側では、過酷な労働から逃れるための逃亡や戸籍の偽装(避役)が相次ぎ、技術の伝承が困難になった。また、民間において手工業技術や流通が発達したため、国家が特定の技術者を囲い込んで直接生産させる必要性自体が薄れていった。

    このような社会構造の変化に対応する形で、光仁天皇期の宝亀11年(780年)にまず大部分の雑戸が良民へと編入された。さらに桓武天皇期の延暦19年(800年)には、残る品部・雑戸の制度も事実上廃止され、彼らは完全に一般の公民(常民)に統合された。この制度の廃止は、初期律令体制の行き詰まりと、古代国家から中世社会へと移行する過程における社会再編の一端を示す重要な象徴であった。

  • 良民

    良民 (りょうみん)

    7世紀末〜10世紀

    【概説】
    古代日本における律令制の身分制度において、賤民(せんみん)以外のすべての自由民を指す総称。戸籍に登録されて国家から口分田を支給される権利を持つ一方、租・庸・調などの重い税負担や兵役の義務を負うことで、律令国家の財政・軍事基盤を支えた。

    「良賤の法」と良民を構成する諸階層

    大化の改新から大宝律令の制定にいたる過程で、律令国家は人民を支配・管理するために、全人民を「良民」と「賤民」の2つに大別する身分制度(良賤の法)を整備した。良民は、法的に自由人としての権利と義務を有する身分であり、その構成は一様ではなかった。

    良民の最上位には、天皇を中心とする貴族や官人(官僚)が位置していたが、その大多数を占めたのは一般の農民である公民(天下の公民)であった。また、かつての部民制の名残をとどめ、朝廷に特定の技術や労働を提供する品部(しなべ/ともべ)や雑戸(ざっこ)なども、法的には良民に分類された。これらは賤民と異なり、家族を構成して独自の戸を構え、人格権を認められた存在であった。

    国家財政の基盤としての役割と班田収授

    良民、とりわけ大部分を占める公民は、律令国家が実施した班田収授法の対象となった。国家が作成した戸籍に基づき、6歳以上の良民(男女)には口分田が与えられ、その一代限りの耕作が認められた。しかし、これは手厚い保護であると同時に、徹底した課税の前提でもあった。

    良民の男丁(17〜65歳)には、口分田の収穫から徴収される「租」だけでなく、都での労役に代わる布などを納める「庸」、郷土の特産物を納める「調」が課された。さらに、地方官衙での労働である「雑徭」や、国家の軍事力を支える兵役(一部は防人や衛士となる)など、極めて重い負担が課されていた。このように、良民は国家の経済的・軍事的な基盤そのものであった。

    良賤交婚による身分秩序の動揺と崩壊

    律令秩序を維持するため、良民と賤民の通婚(良賤交婚)は原則として禁止されていた。しかし実際には、生活の困窮から良民が賤民と交わったり、自ら身分を偽って賤民の家に身を寄せたりする事例が相次いだ。当時の法では「子の身分は母親の身分に従う(当色を従う)」、あるいは「父母の一方が賤民であれば子は賤民となる」と規定されていたため、良賤交婚の結果として生まれる子はすべて賤民とされた。これは、国家にとっては課税対象である良民(公民)の減少を意味した。

    こうした事態に対処するため、国家は8世紀後半(789年)に、良民の男と賤民の女の間に生まれた子は良民とする「良男賤女の法」を定めるなど、良民の確保に努めた。しかし、9世紀から10世紀にかけて、戸籍に基づく人民支配そのものが形骸化し、王朝国家体制へと移行するなかで良賤の区分の意味合いは薄れ、やがて律令制の崩壊とともに「良民」という身分概念も消滅へと向かった。

  • 房戸

    房戸 (ぼうこ)

    8世紀初頭

    【概説】
    律令制下の戸籍制度において、公式な行政単位である「郷戸(ごうこ)」の内部に画定された、より小規模な実際の家族単位。直系家族とその配偶者や隷属民などで構成され、実生活および農業生産における実質的な基礎となった。

    郷戸・房戸制と戸籍制度の展開

    飛鳥時代末期の大宝律令(701年)の制定にともない、律令国家は人民を系統的に把握・支配するための戸籍制度を本格的に整備した。大宝2年(702年)の「大宝度戸籍」にみられる特徴的な家族形態が、この郷戸房戸による二重構造である。行政上の正式な「戸」である郷戸は、複数の親族集団を含む20〜30人以上(時には数十人)からなる大家族として登録されていた。しかし、これらは租税徴収や兵士徴発などの行政的な都合からまとめられた「擬制的」な大世帯にすぎなかった。そのため、郷戸の内部に、実際に寝食をともにし、共同して農業生産を行う小規模な直系家族の単位が必要とされ、これが「房戸」として設定されたのである。

    実質的な生活・生産単位としての機能

    房戸は平均して10人前後の規模であり、夫婦とその子供、あるいは直系の親子を中心とする、実態に即した家族集団であった。律令国家が推進した班田収授法において、実際に口分田を耕作し、生活を営む主体となったのはこの房戸であった。国家は公式には郷戸を単位として課税(調や庸など)を行ったが、実際の徴収や労働力の供出は、この房戸ごとの経済力や労働力に依存せざるを得なかった。このように、房戸は形式的な国家支配の末端を支える、実質的な社会・経済の基礎単位として極めて重要な役割を果たしていた。

    房戸の解消と小戸制への移行

    しかし、擬制的な大家族である郷戸と、実態としての房戸という二重の戸制は、国家の過重な負担に耐えかねた農民の浮浪や逃亡、偽籍などの横行によって、急速に維持が困難となった。実態と乖離した郷戸を基準とした支配体系は機能不全に陥り、奈良時代前期の720年代(神亀年間)頃になると、国家は実態に合わせた戸制の再編を迫られることとなった。その結果、郷戸の中に房戸を包含する形式は廃止され、房戸に相当する実質的な小家族をそのまま「戸(郷戸)」として独立させる小戸制へと移行していった。この変化は、日本の古代国家が人民の個別的な直接支配へと大きく舵を切る契機となった。

  • 郷戸

    郷戸 (ごうこ)

    701年〜740年

    【概説】
    律令期の日本において、戸籍編纂および人民支配の基本とされた大世帯の「戸」。戸主を中心とし、直系・傍系の親族や奴婢など数十人規模の血縁・寄留者集団によって編成された。大宝律令下で導入され、国家が租税を確実に徴収するための共同責任単位として機能した。

    大宝律令と郷戸・房戸制の導入

    大化の改新以降、朝廷は中国の律令制にならい、公地公民制に基づく中央集権国家の確立を推進した。人民を個別に把握し、班田収授法の実施や租・庸・調などの税、さらには兵役を確実に課すためには、統一的な戸籍制度が不可欠であった。670年の庚午年籍、690年の庚寅年籍を経て、701年(大宝元年)の大宝律令の制定によって確立されたのが、「郷戸(ごうこ)」「房戸(ぼうこ)」による二重の戸制(郷里制)である。

    この制度では、それまでの大きめの戸(のちの郷戸)の中に、実質的な小家族の生活単位である「房戸」が複数(平均2〜3個)含まれる形をとった。これにより、国家は大きな「郷戸」を公的な行政単位として登録しつつ、内部の「房戸」によって実態に近い家族・労働力を把握しようとしたのである。

    租税徴収の共同責任体としての機能

    郷戸は、単なる自然発生的な家族集団ではなく、国家によって人為的に編成された「擬制的」な大家族の側面が強かった。当時の現存する戸籍(筑前国嶋郡の戸籍など)によれば、1つの郷戸には20人から多いときには50人以上が記載されている。これほどの大世帯にした背景には、当時の税制が深く関わっている。

    律令制下の税負担、特に都での労役の代わりに納める「庸」や特産品を納める「調」、さらに防人などの「兵役」は、主に成人男性(正丁)に重く課せられた。そのため、1つの小さな家族だけでは、成人男性の病気や死亡によって一気に納税能力を失うリスクがあった。そこで国家は、複数の親族集団を一つの「郷戸」にまとめ、戸主(こしゅ)に納税の統括責任を負わせることで、相互扶助と共同責任による税の確実な徴収を図ったのである。

    郷里制の改変と郷戸の変遷

    715年(霊亀元年)には、地方行政区画としての「里」を「郷」に改め、その下に新たな「里」を置く郷里制が実施され、1郷に50の郷戸を置くことなどが規定された。しかし、重い税負担や兵役から逃れるため、多くの人々が籍を偽る「偽籍(ぎせき)」(男性を女性と偽って登録するなど)や、登録地から逃亡する「浮浪・逃亡」が相次いだ。

    これにより、郷戸という大世帯を維持することが困難となり、実態との乖離は広がる一方であった。その結果、740年(天平12年)には郷里制が廃止されて「郷村制」へと移行し、房戸も廃止されて再び一元的な「戸」へと統合された。その後も戸籍制度は形骸化の一途をたどり、平安時代初期には、戸籍に基づく班田収授や郷戸単位の支配体制は事実上崩壊へと向かうこととなった。

  • 五保

    五保 (ごほう)

    701年

    【概説】
    古代の律令社会において、民衆を統制するために設けられた、5戸を1組とする隣保・連帯責任組織。農民の浮浪や逃亡、犯罪を防ぐとともに、租税の確実な徴収を目的として導入された。

    律令国家による民衆支配と五保の構造

    大化の改新以降、日本は唐の律令制を手本とした中央集権国家の建設を進めた。その一環として、701年の大宝律令の制定により、人民を「戸」に編成して把握する戸籍制度が確立した。この戸籍制度を末端で支え、民衆の直接的な共同生活を監視・統制するために組織されたのが五保である。

    五保は、近隣の5戸を1つのグループとして編成された。五保の内部からは代表者として保頭(ほとう)が選ばれ、グループ内の統率にあたった。主な役割は、不法行為や不審者の有無を互いに監視し、不審な動向があれば官司に告発することであった。もし構成員の中に犯罪者や逃亡者が出た場合、その事実を告発しなかった他の構成員も同罪とされ、連帯責任を負わされた。

    班田収授法・税制の維持との関連性

    五保が重視された最大の要因は、律令国家の財政基盤である班田収授法と税制(租・庸・調・兵役など)の維持にある。当時の農民にとって、重い税負担や過酷な防人・兵役、飢饉などは耐えがたいものであり、居住地を離れて行方をくらます浮浪・逃亡が相次いだ。

    農民が逃亡することは、国家にとっては貴重な税源の損失を意味した。そのため、国家は五保の連帯責任を通じて、構成員同士が互いの逃亡を抑止する関係を作り出そうとしたのである。また、逃亡者が出た場合には、その者が負担すべきであった租税や雑徭などの未納分を、同じ五保のメンバーが共同で補填・代納する義務も課されていたと考えられており、国家の財政を担保する防波堤としての役割を担っていた。

    五保制の形骸化と後世への影響

    奈良時代後期から平安時代に入ると、貴族や寺社の私有地である初期荘園の拡大や、偽籍(兵役や税を逃れるために戸籍を偽ること)の横行、激しい浮浪・逃亡により、戸籍を基準とした支配体制(公地公民制)そのものが揺らぎ始めた。これに伴い、5戸のつながりを前提とする五保制も、実態を伴わない形骸化した制度へと変質していった。

    しかし、「民衆同士に連帯責任を負わせて相互に監視させる」という統治手法は極めて有効であったため、後世の日本社会にも形を変えて受け継がれた。中世の惣村に見られる自検断(自衛・自治組織)や、江戸時代に幕府がキリシタン摘発や治安維持のために全国に徹底させた五人組(ごにんぐみ)制度は、この古代の五保制がルーツ、あるいはその系譜を引くものとしてしばしば比較される。