品部・雑戸 (ともべ・ざっこ)
【概説】
ヤマト政権期の部民制に由来し、律令国家のもとで専門的な技術奉仕を義務付けられた技術者集団。良民に属しながらも世襲で武器製造や特殊な手工業などに従事し、一般の公民とは区別された半自由民的な存在であった。
1. ヤマト政権の部民制から律令制への継承と再編
律令制が成立する以前のヤマト政権期には、大陸からの渡来人を含め、優れた技術を持つ人々が部民(べみん)として組織され、王権や豪族に奉仕していた。大化の改新(645年)によって「公地公民制」が宣言されると、これら部民の旧来の支配関係は一度解体された。しかし、国家の運営や宮廷生活に必要不可欠な専門的技術(武器製造、染織、造営など)を維持・確保するため、新政府は一部の技術者集団を国家の官司(役所)に直属する形で再編した。これが品部(ともべ / しなべ)および雑戸(ざっこ)の始まりである。
2. 品部・雑戸の職能と身分的特徴
品部と雑戸は、いずれも律令制の身分秩序においては「良民」に分類されていたが、実態は一般の公民(課口)とは大きく異なる制約の多いものであった。彼らは、一般の公民のように口分田を与えられて調や庸といった租税を納める代わりに、世襲で特定の技術奉仕や製品の納入を義務付けられていた。この義務は一代限りのものではなく世襲とされたため、婚姻や移転の自由も厳しく制限され、実質的には「良賤の間(中間的身分)」と呼ばれる隷属的な地位に置かれていた。
両者の主な違いは、配属先と業務内容にある。品部は主に大蔵省や宮内省などに属し、織物や陶器、木工、さらには鷹の飼育といった朝廷の需要に応える多様な手工業に従事した。これに対し、雑戸は主に兵部省などの軍事部門に属し、甲冑や弓矢、刀剣などの武器製造、あるいは製鉄や鋳造といった高度な軍事・工業技術を担わされた。特に国家機密に直結する武器製造に従事した雑戸は、品部よりもさらに厳しい管理と制限の下に置かれていた。
3. 律令体制の変容と「雑戸」の解放
奈良時代中期以降、律令国家による官営手工業体制は徐々に機能不全に陥っていった。品部や雑戸の側では、過酷な労働から逃れるための逃亡や戸籍の偽装(避役)が相次ぎ、技術の伝承が困難になった。また、民間において手工業技術や流通が発達したため、国家が特定の技術者を囲い込んで直接生産させる必要性自体が薄れていった。
このような社会構造の変化に対応する形で、光仁天皇期の宝亀11年(780年)にまず大部分の雑戸が良民へと編入された。さらに桓武天皇期の延暦19年(800年)には、残る品部・雑戸の制度も事実上廃止され、彼らは完全に一般の公民(常民)に統合された。この制度の廃止は、初期律令体制の行き詰まりと、古代国家から中世社会へと移行する過程における社会再編の一端を示す重要な象徴であった。