第2回衆議院議員総選挙
【概説】
1892年2月に実施された、日本史上初の衆議院解散に伴う総選挙。第1次松方正義内閣の内務大臣・品川弥二郎らによる、警察や暴力を動員した大規模な選挙干渉が行われた。この過酷な弾圧にもかかわらず野党である民党が過半数を維持し、藩閥政府の超然主義に打撃を与える契機となった。
初期帝国議会の対立と初の衆議院解散
1890年に開設された帝国議会において、薩長出身の藩閥からなる政府と、民意を背景にする政党(民党)との対立は当初から激しいものがあった。立憲自由党や立憲改進党をはじめとする民党は「民力休養・政費節減」を掲げ、政府が提出した軍事費を中心とする予算案の大幅な削減を要求した。
第1回議会(山県有朋内閣)は自由党土佐派の切り崩しによって乗り切ったものの、続く第2回議会(第1次松方正義内閣)では、海軍大臣の樺山資紀が藩閥政府の功績を強弁する「蛮勇演説」を行ったことで対立が決定的となった。民党側が予算案の否決に動いたため、松方内閣は1891年12月に日本初となる衆議院解散へと踏み切った。
品川弥二郎内相による「血の選挙干渉」
解散に伴い実施された第2回衆議院議員総選挙において、政府は民党の進出を力ずくで阻止し、政府を支持する「吏党」を過半数にすべく策動した。その中心人物となったのが、松方内閣の内務大臣であった品川弥二郎と、内務次官の白根専一である。
品川らは、地方官(知事)や警察権力を総動員し、民党の候補者や有権者に対して徹底的な嫌がらせや脅迫を行った。民党側の演説会の禁止、選挙運動員の不当逮捕、さらには買収や暴漢・右翼団体の動員による襲撃までもが公然と行われた。この選挙干渉は全国で激しい衝突を引き起こし、特に高知県や佐賀県などでは死傷者が相次いだ。最終的に死者25名、負傷者380名以上を出す、日本の選挙史上最大の惨劇(血の選挙干渉)となった。
選挙の結果と立憲政治への影響
これほどの凄惨な国家権力による弾圧が行われたにもかかわらず、選挙の結果は民党側(立憲自由党・立憲改進党など)が163議席を獲得して過半数を維持した。一方、政府が支援した吏党は過半数に届かず、政府の選挙干渉工作は事実上の大失敗に終わった。
選挙後、世論や議会からの厳しい批判に晒された品川内相は辞任に追い込まれ、閣内不一致となった松方内閣も同年のうちに総辞職を余儀なくされた。この歴史的事件は、いかに強力な藩閥政府であっても、議会や民意を暴力的に排除することは不可能であることを証明し、その後の超然主義(政党の動向に左右されず独自に政策を遂行する立場)の破綻と、政党との妥協・提携を模索する時代への過渡期を形成することとなった。