賤民(飛鳥時代) (せんみん)
【概説】
律令体制下の身分制度において、売買や譲渡の対象となるなど、人身の自由を厳しく制限された最下層の人々の総称。一般の領民である「良民(りょうみん)」と峻別され、国家や貴族、豪族などの労働力として支配された。飛鳥時代後半の律令編纂を通じて法的に定義され、いわゆる「五色の賤(ごしきのせん)」に細分化された。
良賤制の導入と「五色の賤」
飛鳥時代後期、天武・持統朝から大宝律令の制定(701年)に至る過程で、唐の制度を模倣した本格的な律令体制が構築された。この過程で導入された身分支配の根幹が、人民を「良民」と「賤民」に大別する良賤制(りょうせんせい)である。律令法において、賤民は「五色の賤」と呼ばれる5つのグループに分類され、それぞれの職掌や法的地位が細かく規定された。
五色の賤は、官有(国家に属する)の「陵戸(りょうこ)」「官戸(かんこ)」「公奴婢(くぬひ)」の3種と、私有(個人や豪族に属する)の「家人(けにん)」「私奴婢(しぬひ)」の2種に分けられる。陵戸は天皇・皇族の陵墓を守衛・管理する者、官戸は官司に所属して雑役に従事する者、公奴婢は官有の奴隷である。一方、家人は貴族や豪族の家に隷属して雑務に服するが売買は禁止された者、私奴婢は所有者の完全な財産として扱われ、売買や譲渡、相続の対象となった最下層の者である。
法的制限と不平等な実態
賤民は良民と比較して、極めて不平等な扱いを受けた。戸籍には良民とは区別されて記載され、原則として良民と賤民の結婚(良賤通婚)は禁止された。もし良民と賤民の間に子が生まれた場合、その子は「賤は賤に従う」という原則に基づき、自動的に賤民の身分とされた。この原則は、労働力および財産としての賤民を維持・確保するための国家的な措置であった。
また、班田収授法において良民には口分田が与えられたが、賤民のうち陵戸、官戸、家人には良民と同額の口分田が与えられたのに対し、最も制約の強かった公奴婢・私奴婢に与えられた口分田は良民の3分の1に過ぎなかった。さらに、私奴婢は私有財産として扱われたため、所有者による使役や処分に対して法的な保護をほとんど受けることができなかった。
良賤制の解体と歴史的意義
良賤制は、中央集権的な律令国家が人民を一元的に把握し、支配するための身分秩序として機能した。しかし、飛鳥時代から奈良時代を通じて、良民が重い税負担(租・庸・調や防人などの兵役)から逃れるために、あえて税負担の軽い貴族の家人や私奴婢へと身分を偽る(偽籍)ケースが相次いだ。これにより、良民の減少と国家財政の悪化という問題が生じることとなった。
こうした矛盾を解消するため、平安時代初期の789年(延暦8年)には良賤間の婚姻によって生まれた子供をすべて良民とする法令が出されるなど、段階的に良賤の区別は曖昧になっていった。最終的に、10世紀初頭の律令制の崩壊とともに奴婢制度自体が消滅し、古代の賤民制度は形骸化していくこととなった。飛鳥時代に成立した賤民制度は、日本における初期の階級社会を法的に方向づけた重要な制度であったと言える。