南海道

重要度
★★

南海道 (なんかいどう)

7世紀後半〜

【概説】
古代日本における広域地方行政区分である五畿七道の一つ。紀伊半島から海路を経て四国地方へと至る交通路、およびその沿線に位置する紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の6カ国の総称である。律令体制下における中央と地方を結ぶ大動脈として、行政・交通の両面で重要な役割を果たした。

古代律令制における「五畿七道」と南海道の構成

飛鳥時代の天武・持統朝から奈良時代の大宝律令制定(701年)にかけて、日本は中央集権的な律令国家体制の構築を進めた。その際、全国の行政区分および地方への交通網として整備されたのが五畿七道(ごきしちどう)の制である。南海道はその「七道」の一角を占める区分であった。

南海道が管轄したのは、畿内に隣接する紀伊国(和歌山県・三重県南部)、淡路島に置かれた淡路国(兵庫県)、そして四国に位置する阿波国(徳島県)、讃岐国(香川県)、伊予国(愛媛県)、土佐国(高知県)の計6カ国である。これらの諸国には中央から国司が派遣され、中央政府への徴税や統治を行う行政単位として機能した。

「駅船」が配備された海路主体の交通網

南海道の最大の特色は、東山道や北陸道などの他の道が陸路主体であったのに対し、海路を主たる移動経路として含んでいた点である。都(畿内)から紀伊半島西岸の由良港(現在の和歌山県由良町)などへ南下したのち、船で淡路国を経由し、四国の阿波や讃岐へと渡るルートが公式の官道(駅路・伝路)とされた。

律令制下の交通制度である駅制(えきせい)においては、陸上の移動のための「駅馬(やくば)」だけでなく、海上移動のための「駅船(えきせん)」が南海道の要所に配備された。これは紀伊水道や明石海峡といった海上交通の難所を安全に往来するためのもので、南海道独自のインフラであった。また、このルートは瀬戸内海の物資輸送とも深く結びついており、難波津や大輪田泊などの港湾と連動して、西日本から都へ税(調や庸など)を運ぶ重要ルートとしても機能した。

軍事・政治的要衝としての歴史的変遷

南海道は、都に近接する紀伊から西国へとつながる地政学的な位置にあり、歴史を通じてしばしば軍事・政治の舞台となった。平安時代中期に発生した承平・天慶の乱においては、藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、南海道の伊予国の国府を襲撃するなど、一帯が激しい戦乱に巻き込まれた。

平安時代後期から中世にかけては、紀伊国の高野山熊野三山への信仰(高野参詣・熊野詣)が歴代の上皇や貴族、さらには庶民の間で爆発的に流行し、南海道の一部は信仰の道としても栄えた。戦国時代から近世にかけても、瀬戸内海から大坂湾をにらむ軍事・交易の要衝として、紀伊国(後の徳川御三家・紀州藩)や阿波国(蜂須賀氏・徳島藩)などは、幕藩体制下においても極めて重視される地域であり続けた。

古代日本の交通路 3

古代日本の交通路において極めて重要な役割を果たした南海道の成り立ちと、土佐国を中心とした古代の道の実態を解明する学術的一冊。

土佐と南海道 (街道の日本史 47)

土佐の地域特性を交通路という視点から読み解き、南海道という広域ネットワークの役割と当時の社会変容を明らかにした専門的研究の書。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 縄文時代晩期の東日本を代表する、薄手で精巧な作りや雲形文様・漆塗りなどの装飾が特徴の土器を何というか?
Q. 高松塚古墳の壁画に描かれている、色鮮やかな裳(スカート)をまとった女性たちの姿を、親しみを込めて何と呼ぶか?
Q. 弥生時代に作られた、縄文土器に比べて薄手で赤褐色をしており、より高い温度で焼かれた実用的な土器を何というか?