威海衛 (いかいえい)
【概説】
中国の山東半島東端に位置する、清国の近代海軍(北洋艦隊)の主要な軍港。日清戦争において日本陸海軍の包囲攻撃を受けて陥落し、清国の降伏決定と下関条約の締結を決定づけた歴史的要衝。
北洋艦隊の牙城としての威海衛
威海衛は、渤海湾の入り口を扼する山東半島の東端に位置する天然の良港である。清国の実力者であった李鴻章が進めた洋務運動の軍実に伴い、対岸の遼東半島にある旅順とともに、清国近代海軍「北洋艦隊」の二大拠点として整備された。
湾口には劉公島などの島嶼が配され、強力な近代的砲台が築かれた威海衛は、東洋屈指の堅固な要塞港として知られていた。首都・北京を守る海上の防壁として、清国にとっては極めて重要な軍事上の生命線であった。
陸海協同作戦と北洋艦隊の全滅
1894年に勃発した日清戦争において、日本海軍は黄海海戦で制海権の実質的な支配権を得て、さらに陸軍が旅順を攻略した。逃れた清国艦隊の残存勢力は威海衛に立てこもり、徹底抗戦を図った。これに対し日本軍は、1895年1月に山東半島へ陸軍(第2軍)を上陸させ、威海衛の背後(陸路)からの奇襲攻撃を敢行した。
強固な防備を誇る海側からではなく、手薄な陸側から砲台を占領した日本陸軍は、占領した清国側の砲台を用いて港内の北洋艦隊を射撃した。同時に、伊東祐亨司令官率いる日本海軍の連合艦隊が海側を封鎖し、水雷艇を用いた夜襲などで清国艦船を次々と撃沈した。この陸海協同作戦により、北洋艦隊は完全に孤立無援となった。北洋艦隊提督の丁汝昌は、部下たちの助命を条件に降伏を申し入れた後、責任を負って自決した。ここに清国の誇った近代海軍は全滅したのである。
日清講和への影響と列強による租借
威海衛の陥落により、清国は制海権を完全に失っただけでなく、首都北京への侵攻ルートを完全に抑えられることとなった。これを恐れた清国政府は、抗戦継続を断念して日本との講和交渉に応じることを決意し、全権大使として李鴻章を日本へ派遣。下関条約(日清講和条約)の締結へと至ることとなった。
また、下関条約に基づき、日本側は清国が賠償金を支払い終えるまでの担保として威海衛を一時的に占領した。その後、清国が賠償金を完済して日本軍が撤退すると、今度は東アジアへの勢力拡大を狙うイギリスが、ロシアの旅順・大連租借に対抗して清国から威海衛を租借(1898年)した。このように、威海衛は日清戦争の勝敗を決定づけた地であると同時に、その後の帝国主義列強による中国分割の舞台ともなったのである。