郷戸

重要度
★★

郷戸 (ごうこ)

701年〜740年

【概説】
律令期の日本において、戸籍編纂および人民支配の基本とされた大世帯の「戸」。戸主を中心とし、直系・傍系の親族や奴婢など数十人規模の血縁・寄留者集団によって編成された。大宝律令下で導入され、国家が租税を確実に徴収するための共同責任単位として機能した。

大宝律令と郷戸・房戸制の導入

大化の改新以降、朝廷は中国の律令制にならい、公地公民制に基づく中央集権国家の確立を推進した。人民を個別に把握し、班田収授法の実施や租・庸・調などの税、さらには兵役を確実に課すためには、統一的な戸籍制度が不可欠であった。670年の庚午年籍、690年の庚寅年籍を経て、701年(大宝元年)の大宝律令の制定によって確立されたのが、「郷戸(ごうこ)」「房戸(ぼうこ)」による二重の戸制(郷里制)である。

この制度では、それまでの大きめの戸(のちの郷戸)の中に、実質的な小家族の生活単位である「房戸」が複数(平均2〜3個)含まれる形をとった。これにより、国家は大きな「郷戸」を公的な行政単位として登録しつつ、内部の「房戸」によって実態に近い家族・労働力を把握しようとしたのである。

租税徴収の共同責任体としての機能

郷戸は、単なる自然発生的な家族集団ではなく、国家によって人為的に編成された「擬制的」な大家族の側面が強かった。当時の現存する戸籍(筑前国嶋郡の戸籍など)によれば、1つの郷戸には20人から多いときには50人以上が記載されている。これほどの大世帯にした背景には、当時の税制が深く関わっている。

律令制下の税負担、特に都での労役の代わりに納める「庸」や特産品を納める「調」、さらに防人などの「兵役」は、主に成人男性(正丁)に重く課せられた。そのため、1つの小さな家族だけでは、成人男性の病気や死亡によって一気に納税能力を失うリスクがあった。そこで国家は、複数の親族集団を一つの「郷戸」にまとめ、戸主(こしゅ)に納税の統括責任を負わせることで、相互扶助と共同責任による税の確実な徴収を図ったのである。

郷里制の改変と郷戸の変遷

715年(霊亀元年)には、地方行政区画としての「里」を「郷」に改め、その下に新たな「里」を置く郷里制が実施され、1郷に50の郷戸を置くことなどが規定された。しかし、重い税負担や兵役から逃れるため、多くの人々が籍を偽る「偽籍(ぎせき)」(男性を女性と偽って登録するなど)や、登録地から逃亡する「浮浪・逃亡」が相次いだ。

これにより、郷戸という大世帯を維持することが困難となり、実態との乖離は広がる一方であった。その結果、740年(天平12年)には郷里制が廃止されて「郷村制」へと移行し、房戸も廃止されて再び一元的な「戸」へと統合された。その後も戸籍制度は形骸化の一途をたどり、平安時代初期には、戸籍に基づく班田収授や郷戸単位の支配体制は事実上崩壊へと向かうこととなった。

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