義和団

高校日本史的重要度
★★★

【参考リンク】
義和団(Wikipedia)

義和団

1898年 – 1901年

【概説】
扶清滅洋」をスローガンに掲げて激しい外国人排斥運動を展開した、中国の宗教的・排外的な民衆団体。1900年に北京の各国公使館を包囲する義和団の乱北清事変)を引き起こし、列強による大規模な軍事介入を招いた。日本はこの鎮圧に主力として参加し、その後の国際的地位を高めるとともに、日露戦争へと向かう重要な契機となった。

義和団の起源と「扶清滅洋」

義和団の母体は、中国の民間宗教結社である白蓮教の流れを汲む「義和拳(ぎわけん)」と呼ばれる武術集団であった。19世紀末の清では、日清戦争の敗北を契機に欧米列強や日本による中国分割が急激に進んでおり、民衆の間ではキリスト教の宣教師や改宗者、さらには外国人全般に対する強い反発(仇教運動)が高まっていた。彼らは武術と呪術的な信仰を結びつけ、「呪文を唱えれば刀や銃弾を跳ね返せる(刀槍不入)」と称して農民や失業者を中心に勢力を拡大していった。

当初、彼らは清朝の打倒を目指す「反清復明」を掲げていたが、列強の進出が深刻化するにつれて、清朝を助けて西洋人を撃ち滅ぼす扶清滅洋(ふしんめつよう)」へとスローガンを転換した。これにより一部の地方官僚からの暗黙の支持を得るようになり、山東省から首都・北京が位置する直隷省へと急速に運動が波及していった。

北清事変(義和団事件)の勃発と北京籠城戦

1900年、勢いづいた義和団は北京に入城し、教会を焼き討ちし、外国人やキリスト教徒を次々と殺害した。これに対し、当時清朝の実権を握っていた西太后ら保守派政府は、義和団の排外運動を利用して列強の干渉を排除しようと目論み、義和団を支持して列強各国に対して宣戦を布告した。こうして義和団と清国正規軍は、北京の東交民巷にある各国公使館区域を包囲し、猛烈な攻撃を加えた。日本史においては、この一連の動乱を北清事変(ほくしんじへん)と呼ぶ。

公使館区域には、各国の外交官やその家族、護衛兵、キリスト教徒ら約4,000人が籠城し、約2ヶ月間にわたる過酷な防衛戦を繰り広げた。この際、多国籍防衛軍の実質的な指揮を執ったのが、日本公使館付武官の柴五郎(しば ごろう)中佐であった。彼の卓越した統率力と日本兵の献身的な奮闘は、共に籠城した欧米各国の関係者から多大な賞賛を浴びることとなった。

八カ国連合軍の出兵と日本の台頭

公使館の危機を救い、義和団の乱を鎮圧するため、日本・ロシア・イギリス・アメリカ・フランス・ドイツイタリア・オーストリアの8カ国は連合軍を編成し、共同出兵を行った。中でも地理的に近く、また列強としての地位向上を目指していた日本は、全派遣軍の約半数にあたる約2万人の大部隊(第五師団など)を派兵し、鎮圧軍の主力として極めて重要な役割を果たした。

日本軍は連合軍の中で最も軍律が厳正であり、高い戦闘能力を発揮して北京占領に多大な貢献をした。これにより、日本は欧米列強から「極東における文明国の憲兵」としての評価を獲得し、条約改正の達成と相まって、国際社会における一等国としての存在感を強く印象づけたのである。

事件の事後処理と日露戦争への足音

1901年、敗北した清朝は列強と北京議定書辛丑条約を締結した。これにより清は莫大な賠償金の支払いを義務付けられただけでなく、北京と天津の間に外国軍隊が駐留する権利(駐兵権)を認めることとなり、事実上の半植民地化が決定づけられた。

この義和団の乱は、その後の日本の歴史的展開に決定的な影響を与えた。乱の鎮圧後も、ロシアは「満州の保護」を口実に大軍を駐留させ続け、南下政策を露骨に推し進めた。このロシアの膨張に対して強い危機感を抱いたのが、日本とイギリスであった。ロシアの脅威に対抗するため、イギリスは長年の「光栄ある孤立」政策を放棄し、1902年に日本との間で日英同盟を締結した。義和団が引き起こした排外運動は、結果として極東の勢力図を大きく塗り替え、1904年の日露戦争へと直結する歴史の巨大な転換点となったのである。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:40

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