扶清滅洋 (ふしんめつよう)
【概説】
19世紀末の清(中国)において、排外主義運動である義和団が掲げた政治的スローガン。「清朝を助け(扶清)、西洋列強やキリスト教を駆逐する(滅洋)」という意味。この思想のもとに発生した義和団事件(北清事変)は、近代日本が東アジアの覇権を争う帝国主義列強の列へと加わる決定的な契機となった。
「反清復明」から「扶清滅洋」への思想的転回
義和団のルーツは、山東省などの華北地方で盛んであった民間信仰や拳法(義和拳)を結びつけた秘密結社である。当初、彼らは清朝の支配に反対し、明朝の再興を目指す「反清復明(はんしんふくめい)」の思想を抱いていた。しかし、日清戦争(1894〜95年)で清朝が敗北すると、帝国主義列強による中国分割(租借地の獲得や勢力範囲の設定)が急速に進行した。さらに、西洋のキリスト教宣教師の進出や、彼らと結託した中国人キリスト教徒(教民)と在来の地域住民との摩擦(仇教運動)が激化し、民衆の生活は困窮を極めた。こうした状況下で、民衆の敵意の矛先は清朝政府から「西洋」へとシフトし、清朝の地方官の懐柔策もあって、スローガンは清朝を擁護して外国勢力を排除する「扶清滅洋」へと劇的に変化した。
義和団事件の勃発と西太后の宣戦布告
「扶清滅洋」を叫ぶ義和団は、キリスト教徒や教会を襲撃するだけでなく、西洋の象徴とみなした鉄道や電信、外国製品などを破壊しながら勢力を拡大した。1900年(明治33年)には北京へと乱入し、清朝の実権を握っていた西太后ら保守派は、この排外暴動のエネルギーを利用して列強を排除しようと目論んだ。清朝政府は義和団を公認・支援し、ついに列強に対して宣戦布告を行うに至る。これにより、北京の各国公使館街が義和団および清国軍によって包囲され、孤立する事態となった。
日本(明治政府)への影響と日露戦争への導火線
公使館街の救出のため、イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、日本、イタリア、オーストリアの8カ国連合軍が結成された。この共同出兵において、地理的に最も近く、迅速に動員可能であった日本(明治政府)は、連合軍の約半数を占める大軍(約2万人中約1万人)を派遣し、実質的な主力としての役割を果たした。日本軍は規律正しく戦闘に貢献したことで列強から高く評価され、「極東の憲兵」としての地位を確立することとなった。しかし、事件後の北京議定書(辛丑条約)締結による賠償金獲得や北京駐兵権の確保の裏で、ロシアが混乱に乗じて満洲を軍事占領した。このロシアの南下政策が日本やイギリスに強い警戒感を抱かせ、1902年の日英同盟締結、そして1904年の日露戦争へとつながる東アジア外交の決定的な転換点となった。