北京議定書(辛丑条約) (ぺきんぎていしょ(しんちゅうじょうやく)
【概説】
1901年、北清事変(義和団事件)の事後処理として、清国と日本を含む11カ国の列強との間で結ばれた講和条約。清国に対して天文学的な額の賠償金を課したほか、北京への外国軍隊の駐留権を認めさせた。これにより清国の半植民地化が決定的となり、日本の東アジア政策やのちの日中関係にも重大な影響を与えた。
義和団事件(北清事変)と日本の軍事介入
日清戦争での清国の敗北を契機に、列強による中国分割が急速に進むなか、山東省から「扶清滅洋(清を助け、西洋を滅ぼす)」をスローガンに掲げる義和団の排外主義運動が広がった。この運動は清朝政府の支持を得て北京へと波及し、1900年には日独の外交官が殺害され、各国の公使館街が包囲される事態(義和団事件/北清事変)に発展した。
イギリスをはじめとする列強は、清国に自国民を救出するための連合軍を派遣することを決定した。しかし、欧州から遠く離れたアジアでの迅速な大軍派遣は困難であり、日本に対して出兵要請がなされた。日本政府はこれに応じ、地理的近接性と組織的な動員力を生かして、連合軍の約半数を占める約8000人(のちに約1万3000人に増員)の兵力を派遣した。この日本の活躍と規律正しさは列強から「極東の憲兵」と高く評価され、国際社会における日本の地位を大きく引き上げる契機となった。
北京議定書の過酷な内容と清国の従属化
連合軍による北京制圧後、1901年9月に清国と11カ国の間で交わされた講和書が北京議定書(辛丑条約)である。この条約は、主権国家としての清国の地位を失墜させる極めて厳しい内容であった。
最も清国を苦しめたのが、4億5000万両(テール)にのぼる巨額の賠償金である。これは清国の年間国家予算の数倍に匹敵し、利息を含めると最終的な支払額は9億両を超えた。この返済のために、清国の重要な財源であった関税や塩税が列強の管理下に置かれた。さらに、大沽砲台の破壊や、北京の公使館区域における防備のための外国軍隊の駐留権が認められた。これにより、清国の首都北京は実質的に列強の軍事的監視下に置かれることとなり、半植民地化が完了した。
日本史における歴史的意義と二つの禍根
北京議定書は、その後の日本の命運、ひいては昭和期の日中関係を大きく規定することとなった。重要となるのは、以下の2点である。
第一に、この条約によって日本に認められた北京近郊への軍隊駐留権である。日本はこの権利をもとに「清国駐屯軍(のちの支那駐屯軍)」を天津に常駐させた。この部隊は昭和期に入ると増強され、1937年に日中戦争(支那事変)の引き金となる盧溝橋事件を引き起こす当事者となった。つまり、日中全面戦争の軍事的な火種は、この北京議定書によって植え付けられていたのである。
第二に、この事件に乗じてロシアが満洲(中国東北部)に大軍を侵攻させ、事後も撤退しなかったことである。ロシアの満洲占領は日本の安全保障および利権(朝鮮半島・南満洲)にとって最大の脅威となり、日本はイギリスとの同盟(日英同盟)の結成へと踏み切ることとなった。この対立構図が、やがて1904年の日露戦争へと直結していくこととなった。