領土保全
【概説】
1900年の北清事変(義和団事件)の際、アメリカ合衆国の国務長官ジョン=ヘイが提唱した外交原則。列強による中国の領土分割に反対し、その主権と領土の統一を維持することを求めた。前年に提唱された「門戸開放」「機会均等」と合わせて門戸開放三原則と総称され、東アジアにおける列強の勢力均衡に大きな影響を与えた。
帝国主義列強の中国分割とアメリカの意図
日清戦争(1894〜95年)において清国が敗北すると、ロシア、ドイツ、イギリス、フランスなどの帝国主義列強は、競って清国から租借地を獲得し、自らの勢力範囲を設定する「中国分割」を推し進めた。この競争に出遅れていたアメリカ合衆国は、東アジアにおける自国の商業権益を確保するため、1899年に国務長官ジョン=ヘイの名で「門戸開放(市場の開放)」および「機会均等(通商条件の平等)」を列強に提唱した。
さらに翌1900年、中国で排外主義的な民衆運動である義和団の乱が発生し、列強の共同出兵による北清事変へと発展すると、列強が事変に乗じてさらなる領土割譲や清国の完全な植民地化へと突き進む懸念が生じた。これに対し、ジョン=ヘイは第二次門戸開放通牒を発し、清国の行政的・領土的保全(主権と領土の一体性の維持)を遵守するよう強く促した。これが「領土保全」原則の提唱である。
日本史における意義と日露対立への影響
この「領土保全」および「門戸開放」の原則は、近代日本の外交路線、特に北清事変後の対露関係に決定的な影響を及ぼした。北清事変に際し、日本は列強中最多の兵力を派遣して治安維持に貢献したが、事変の混乱に乗じてロシアが満洲(中国東北部)に大軍を駐留させ、事実上の軍事占領を継続した。
ロシアの満洲独占は、朝鮮半島(大韓帝国)への進出を企図する日本にとって最大の脅威であった。同時に、満洲市場へのアクセスを求めるアメリカや、長江流域に利権を持つイギリスにとっても、ロシアの行動は「領土保全」および「機会均等」を著しく侵害する暴挙と映った。日本はアメリカの掲げる「領土保全」原則を外交上の大義名分として支持し、英米両国と緊密に連携してロシアの撤兵を強く要求した。この利害の一致が、1902年の日英同盟の結成を促し、1904年の日露戦争勃発へと至る国際的な枠組みを形成することとなった。
大正・昭和期における原則の変質と日米対立
当初はロシアの南下政策を牽制するために日本が支持した「領土保全」の原則であったが、日露戦争後に日本が満洲において特殊権益(南満洲鉄道など)を確立すると、この原則は逆にアメリカが日本を牽制するための外交カードへと変化した。
大正期に入り、第一次世界大戦中の1915年に日本が中国の袁世凱政府に対して対華二十一カ条要求を突きつけると、アメリカはこれが中国の「領土保全」と「門戸開放」を侵害するものであるとして強く反発した。その後、昭和期の満洲事変(1931年)による満洲国の建国や、続く日中戦争の勃発に際しても、アメリカは一貫してこの「領土保全」原則を根拠に日本の軍事行動を非難し続けた。かつて協調の基盤となったこの原則は、皮肉にも昭和期における日米対立の激化、そして太平洋戦争へと至る外交的衝突の最大の争点となったのである。