公文所 (くもんじょ)
【概説】
1184(元暦元)年、源頼朝が鎌倉に設置した、一般政務や財政、公文書の作成・管理を担った行政機関。
京都から下向した中下級貴族(実務官僚)を登用して運営され、のちに頼朝が公卿に昇進すると「政所」へと発展的改称を遂げた。
鎌倉幕府の行政機構整備と公文所の誕生
治承・寿永の乱(源平合戦)の最中である1180年に鎌倉入りした源頼朝は、まず御家人の統制と軍事警察を担う侍所を設置した。当初の頼朝の権力基盤は、東国武士団を束ねる軍事指揮者としての性格が強かったが、1183年の寿永二年十月宣旨によって朝廷から東国における事実上の支配権を公認されると、単なる軍事力だけでなく、領地支配や税の徴収を担う本格的な行政機能が必要となった。
そこで1184(元暦元)年10月、木曾義仲を討伐して政局を優位に進めていた頼朝は、一般政務や財政、さらには朝廷や御家人との間で交わされる公文書の作成・管理を司る機関として公文所を設置した。また、同月には訴訟や裁判事務を専門とする問注所も設けられており、侍所・公文所・問注所という初期鎌倉幕府の統治機構の骨格がここに形成されたのである。
京下りの実務官僚と大江広元の登用
公文所の初代長官である別当には、朝廷の学問・実務を世襲する家柄出身である大江広元が任命された。東国の武士たちは戦いには長けていたものの、難解な漢文体を操って公文書を作成したり、先例に基づいた複雑な行政事務を処理したりする能力に欠けていた。
そのため頼朝は、大江広元や、問注所の初代執事となった三善康信に代表されるような、京都から下向してきた中下級貴族を積極的に重用した。彼らは「京下り(きょうくだり)」の官僚と呼ばれ、公文所は彼らの高度な行政知識と文書作成能力によって支えられた。このことは、鎌倉幕府が単なる武断的な軍事政権にとどまらず、朝廷の法制や文書主義を摂取した合理的な行政政権へと脱皮する上で極めて重要な意味を持っていた。
「政所」への発展的改称とその歴史的意義
公文所はその後、鎌倉幕府の中枢として機能したが、その名称は長くは続かなかった。1190(建久元)年、頼朝は平氏滅亡後初めて上洛を果たし、朝廷から権大納言および右近衛大将に任じられた。律令制の規定や公家社会の慣例において、三位以上の公卿には自身の家政機関である「政所(まんどころ)」を設置する特権が認められていた。
これにより、1191(建久2)年に公文所は政所へと発展的に改称され、大江広元も引き続き政所の初代別当に就任した。つまり、公文所から政所への移行は単なる名称変更ではなく、源頼朝という武家の棟梁の私的な機関が、朝廷の公的な制度体系の中に位置づけられ、正当な権威を獲得したことを象徴する出来事であったと言える。