久坂玄瑞

高校日本史的重要度
★★

「瑞」の書き方

久坂玄瑞 (くさかげんずい)

1840年〜1864年

【概説】
幕末の長州藩士、尊王攘夷派の志士。吉田松陰に師事して高杉晋作とともに「松下村塾の双璧」と称され、過激化する尊攘運動を理論・実動の両面で牽引した。八月十八日の政変で失脚した長州藩の復権を期して「禁門の変蛤御門の変)」を起こしたが、幕府軍に敗れて自刃した。

松下村塾の双璧と尊王攘夷運動の展開

久坂玄瑞は、長州藩の藩医の家に生まれた。幼くして両親と兄を亡くし、若くして家督を継ぐ。医学を学ぶ中で次第に時勢への関心を強め、1857年に吉田松陰の主宰する松下村塾に入門した。松陰は久坂の才能を「天下の英才」と絶賛し、後に自身の妹である文を嫁がせるほど深く信頼した。久坂は、同門の高杉晋作とともに「双璧」と称され、塾生たちの中心的存在となっていく。

1859年、安政の大獄によって師の松陰が刑死すると、久坂は師の遺志を継いで過激な尊王攘夷(尊攘)運動に身を投じる。1862年には高杉らとともに「御楯組(みたてぐみ)」を結成し、品川の英国公使館焼き討ちを実行するなど、朝廷を尊び外国を排斥するための実力行使を辞さない急進派のリーダーとして頭角を現した。

八月十八日の政変と長州藩の孤立

1863年、長州藩の主導による「攘夷親征(天皇自らが軍を率いて攘夷を行うこと)」の計画が進む中、これに危機感を抱いた薩摩藩と会津藩が結託。朝廷内の公武合体派と連携して八月十八日の政変を引き起こした。これにより、長州藩および三条実美ら尊攘派の公家は京都から追放され、政治的主導権を完全に失うこととなる。

京都における足がかりを失った長州藩内では、武力をもって京都に進発すべきだとする「進発論」と、時期尚早として藩の地盤を固めるべきだとする慎重派(桂小五郎ら)の間で激しい論争が巻き起こった。久坂は当初、無謀な挙兵は藩を滅ぼしかねないとして慎重な立場をとっていた。しかし、1864年に京都で長州藩士らが襲撃された池田屋事件の報が伝わると、藩内の主戦派の怒りは頂点に達し、久坂もついに挙兵を決意せざるを得なくなった。

禁門の変と志半ばの最期

1864年7月、久坂は来島又兵衛や真木和泉らとともに長州藩兵を率いて上京。「藩主の冤罪を帝に訴える」という大義名分のもと、京都の蛤御門周辺で薩摩藩・会津藩をはじめとする幕府軍と激突した(禁門の変蛤御門の変)。

長州藩兵は一時、御所の門内に迫る猛攻を見せたが、兵力や装備で勝る幕府軍の反撃に遭い、来島又兵衛の戦死などもあって総崩れとなった。久坂は敗色濃厚となる中、鷹司邸に入って朝廷への嘆願を試みたが受け入れられず、退路を断たれて寺島忠三郎とともに自刃した。享年25(満24歳)。彼の死は、長州藩における急進的尊攘派の衰退をもたらし、藩は一時的に保守派(俗論派)へと主導権が移ることになるが、その後の高杉晋作らによるクーデターと倒幕運動へと歴史が動く契機となった。

最終更新:
2026年8月12日 @ 22:55

日本史一問一答(ランダム)

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