高杉晋作

吉田松陰の松下村塾で学び、身分を問わない民兵組織「奇兵隊」を創設して長州藩の倒幕運動の中心となった志士は誰か?
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★★★

高杉晋作 (たかすぎしんさく)

1839〜1867

【概説】
幕末期に活躍した長州藩の尊王攘夷派志士。吉田松陰の松下村塾に学び、身分を問わない民兵組織「奇兵隊」を創設して長州藩の軍制改革と倒幕運動を牽引した。第二次長州征討において幕府軍を大破するも、明治維新を見届けることなく病に倒れた。

松下村塾への入門と上海渡航

高杉晋作は天保10年(1839)、長州藩の萩において上級武士の家に生まれた。藩校の明倫館で学ぶ傍ら、吉田松陰が主宰する松下村塾に入門し、久坂玄瑞とともに「松下村塾の双璧」と称されるほど頭角を現した。松陰の教えは、既存の身分制度や幕府の権威にとらわれず、国家の危機に対して主体的に行動する「草莽崛起(そうもうくっき)」の精神であり、これが後の高杉の行動原理となる。

文久2年(1862)、幕府の使節随行員として清の上海へ渡航したことは、高杉の思想に決定的な影響を与えた。アヘン戦争後に欧米列強の半植民地と化した清の惨状を目の当たりにした彼は、日本も直ちに強力な軍事力を備えなければ西洋の属国になるという強烈な危機感を抱いた。帰国後、高杉は尊王攘夷運動に身を投じ、品川御殿山で建設中であった英国公使館の焼き討ちを主導するなど、過激な行動をとるようになった。

奇兵隊の創設と軍制改革

文久3年(1863)、長州藩は幕府の攘夷決行令に基づき下関海峡を通過する外国船を砲撃したが、米仏軍艦からの報復攻撃を受け、武士のみで構成された藩の正規軍の無力さを露呈した。この危機的状況下において藩命を受けた高杉は、従来の身分制度を打破し、農民や町人であっても志願すれば入隊できる民兵組織「奇兵隊」を創設した。

奇兵隊は西洋式の軍事訓練を取り入れ、身分ではなく実力主義に基づいた編制を行った。この画期的な試みは大きな反響を呼び、その後長州藩内には奇兵隊に倣った遊撃隊や報国隊などの「諸隊」が次々と結成された。これらの諸隊は、後の長州藩における武力倒幕の強靭な軍事的基盤となっていく。

功山寺挙兵と藩論の統一

元治元年(1864)、長州藩は京都での禁門の変(蛤御門の変)で敗れて朝敵の汚名を着せられたうえに、第一次長州征討と四国艦隊下関砲撃事件(馬関戦争)という国内外からの同時攻撃を受けた。これにより藩内では、幕府への恭順を主張する保守派(俗論派)が実権を握り、尊王攘夷派の志士たちは次々と弾圧された。

絶体絶命の危機の中、高杉は同年12月、下関の功山寺においてわずか数十名の同志とともに挙兵した。初めは無謀と思われたこの行動であったが、伊藤博文率いる力士隊などを皮切りに、奇兵隊をはじめとする諸隊が次々と合流し大勢力となった。彼らは藩の正規軍を打ち破って保守派から藩政を奪い返し、長州藩の藩論を明確な「武力倒幕」へと統一することに成功した。

第二次長州征討における勝利と早すぎる死

慶応2年(1866)、坂本龍馬らの仲介による薩長同盟の締結を経て孤立を脱した長州藩に対し、幕府は第二次長州征討(四境戦争)を発動した。高杉は海軍総督として洋式軍艦を指揮し、小倉口(関門海峡)での戦闘において幕府艦隊を奇襲攻撃して圧倒した。さらに奇兵隊ら陸上兵力との巧みな連携により幕府軍を敗走させ、長州藩を歴史的勝利へと導いた。

長州藩の勝利は、もはや幕府に全国を統制する力がないことを天下に露呈させ、江戸幕府崩壊の決定的な契機となった。しかし、激動の時代を駆け抜けた高杉は結核に冒されており、大政奉還による江戸幕府の滅亡を見る直前の慶応3年(1867)4月、下関において27歳という若さで病没した。彼の類まれなる行動力と変革の意志は、木戸孝允や伊藤博文、山県有朋ら同門の志士たちへと引き継がれ、近代日本を形作る明治維新へと結実したのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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