第3次伊藤博文内閣
【概説】
明治中期に成立した、伊藤博文を首班とする3回目の藩閥内閣。日清戦争後の財政危機を乗り切るため地租増徴案を議会に提出したものの、民党側の猛反発を受けて衆議院を解散し、わずか5ヶ月余りで総辞職に追い込まれた短命政権。この退陣が、日本初の政党内閣である第1次大隈重信内閣(隈板内閣)の誕生へとつながる歴史的転換点となった。
日清戦後の財政危機と内閣の発足
日清戦争に勝利した日本は、大陸への進出や欧米列強に対抗するため、軍備拡張や産業振興をはじめとする「戦後経営」を強力に推し進めた。しかし、これにともなう国家財政の膨張は深刻であり、新たな財源の確保が急務となっていた。
こうした中、前政権である第2次松方正義内閣は、進歩党(大隈重信党首)との提携決裂と地租増徴案の議会否決によって崩壊した。その後を受けて1898年(明治31年)1月、明治憲法の起草者であり藩閥の実力者である伊藤博文が3度目の組閣を行った。伊藤は、かつての超然主義(政府は政党の意向に左右されず独自に政策を遂行するという姿勢)を維持しつつも、財政再建という困難な課題に直面することとなった。
地租増徴案をめぐる対立と衆議院解散
第3次伊藤内閣が財政難の解決策として打ち出したのが、地租増徴案であった。これは、当時の主要な税収源であった地租の税率を、従来の2.5%から4%へと引き上げるものであった。しかし、地主層を支持基盤とする衆議院の二大政党、すなわち板垣退助率いる自由党と、大隈重信率いる進歩党は、この増税案に猛烈に反対した。
両党は政府の増税路線に対抗するため、これまでの対立関係を解消して大同団結を模索した。伊藤博文は議会での妥協を試みたものの決裂し、1898年6月、地租増徴案の否決が確実となると衆議院を解散した。しかし、この強硬策はかえって政党側の結束を強める結果となった。
憲政党の結成と政党内閣への政権移譲
解散総選挙を前にした1898年6月22日、自由党と進歩党は合同して巨大政党である憲政党を結成した。これにより、衆議院において藩閥政府を圧倒する絶対多数の勢力が誕生することとなった。
この事態に対し、伊藤博文は政府自らが組織する独自の「政府党(帝国党)」を結成して憲政党に対抗しようとした。しかし、藩閥内のライバルであり、政党政治を嫌う山県有朋らがこの計画に猛反対した。自らの政党結成を阻まれ、議会運営の目途も立たなくなった伊藤は政権維持を断念し、1898年6月30日に内閣総辞職へと追い込まれた。
伊藤は辞職にあたり、後継首相として憲政党の大隈重信と板垣退助を推薦した。これにより、日本初の本格的な政党内閣である第1次大隈重信内閣(隈板内閣)が組織されることとなった。第3次伊藤博文内閣の崩壊は、それまでの藩閥による超然内閣の限界を示し、日本の政治が本格的な政党政治の時代へと移行する決定的な契機となったのである。