漢学 (かんがく)
【概説】
四書五経などの儒教経典や、中国の歴史・文学を研究する学問。江戸時代において武士の必須の教養とされ、幕藩体制を支える思想的支柱や官僚の行政能力を培う基礎となった。
幕藩体制の維持と朱子学の官学化
江戸幕府は、戦国時代の戦乱を経て確立された新たな支配秩序を維持するため、社会の上下関係や身分秩序を肯定する儒教の一派である朱子学を重視した。徳川家康に仕えた林羅山以来、林家は代々幕府の文教政策を担い、後にその家塾は幕府直轄の昌平坂学問所へと発展した。朱子学が説く「身分相応の分を守り、主君に忠を尽くす」という倫理観は、武家社会の統治理論として極めて都合が良く、寛政の改革期には寛政異学の禁が敷かれ、朱子学以外の儒学の講義が制限されるなど、国家公認の統治教学として位置づけられた。
多様化する思想潮流と学派の展開
漢学は幕府公認の朱子学にとどまらず、多様な学派の発展を見た。実践や内省を重んじる陽明学(中江藤樹や熊沢蕃山ら)は、自己の良心に従って行動することを説き、のちに大塩平八郎の乱などの体制批判の思想的源泉となった。また、後世の注釈を排して孔子や孟子の原典に直接立ち返るべきだとする古学(山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠ら)が台頭した。特に荻生徂徠は、漢学を単なる個人の道徳修養にとどめず、社会を治めるための「経世済民」の具体策を提示する政治学・制度論へと昇華させ、江戸後期の政治改革や経世論の隆盛に大きな影響を与えた。
他学問との対比と「漢学」概念の成立
もともと江戸時代前半には「学問」といえば儒学(漢学)を指していたが、江戸中期以降、日本独自の古典や古代精神を究明しようとする国学や、オランダ経由で西洋の学術を取り入れる蘭学(のちの洋学)が台頭すると、これらに対比される形で「漢学」という呼称が定着した。幕末には、欧米列強の脅威に対抗するための実学として洋学が急速に台頭し、漢学の優位性は揺らぐこととなった。しかし、明治維新を経て西洋化が進むなかでも、近代日本の指導者や知識人たちの基礎教養、あるいは倫理観の土台として、漢学は長く機能し続けた。