会津藩(幕末)

京都守護職として新選組を配下とするなど幕府を支え、戊辰戦争では新政府軍の最大の標的となって激しく抗戦した藩はどこか?
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重要度
★★

会津藩(幕末) (あいづはん)

1643年〜1869年

【概説】
陸奥国会津郡(現在の福島県西部)を中心に支配した、親藩(会津松平家)の藩。幕末の動乱期に藩主・松平容保が京都守護職に就任して治安維持に奔走した。維新期における戊辰戦争では、旧幕府方の中心勢力として新政府軍に猛烈に抵抗し、凄惨な籠城戦を戦い抜いた。

京都守護職への就任と「佐幕派」としての台頭

江戸幕府の初代将軍・徳川家康の孫にあたる保科正之を始祖とする会津松平家は、「将軍家に対して忠義を尽くすこと」を家訓(会津家訓十五箇条)とする、極めて忠誠心の強い藩風を有していた。この精神が、幕末期において会津藩の命運を大きく決定づけることとなる。

1862(文久2)年、幕政改革(文久の改革)の一環として新設された京都守護職に、会津藩主・松平容保が就任した。容保は辞退を申し出たものの、徳川家への絶対的な忠誠を規定した家訓を盾に説得され、これを引き受けた。京都に入った会津藩は、治安維持のために浪士集団である新選組を配下に置き、過激な尊王攘夷派の志士たちを厳しく取り締まった。1863年の八月十八日の政変や、翌1864年の禁門の変(蛤御門の変)において、会津藩は長州藩をはじめとする急進的倒幕派を撃退し、一躍「佐幕派」の筆頭として頭角を現した。しかし、この一連の苛烈な治安維持活動は、後の新政府軍の中核をなす薩摩藩や長州藩から深い怨恨を買う結果となった。

戊辰戦争と「会津戦争」の悲劇

1867(慶応3)年の大政奉還、および王政復古の大号令により幕府が消滅すると、政権の主導権を握った新政府によって、会津藩は一転して「朝敵(朝廷の敵)」の烙印を押された。1868年に始まった戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、徳川慶喜は江戸へ退却して恭順を示した。これに対し、容保は謝罪と恭順の嘆願書を提出したが、新政府側はこれを一切認めず、会津藩への徹底的な追討令を出した。

孤立無援となった会津藩は、新政府軍の東進に対して東北諸藩と同盟を結び(奥羽越列藩同盟)、全面的な抵抗に踏み切った。これが会津戦争である。新政府軍の圧倒的な近代兵器と包囲網に対し、会津藩は鶴ヶ城(若松城)に籠城し、約1ヶ月に及ぶ激しい防衛戦を展開した。この戦闘では、藩の少年たちで結成された白虎隊が飯盛山で自刃した悲劇や、女性たちが銃をとって戦ったエピソードなど、多くの哀話が生まれた。同年9月、限界に達した会津藩は降伏し、藩主・容保は謹慎処分、藩領は没収された。その後、会津松平家は現在の青森県(下北半島)に位置する極寒の斗南藩(となみはん)へと移転を余儀なくされ、多くの家臣たちが困窮の歴史を歩むこととなった。会津藩の滅亡は、徳川幕府への忠義に殉じた藩の運命を示す、幕末・維新期における最大の悲劇の一つである。

尾張藩幕末風雲録: 血ぬらずして事を収めよ

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会津戦争全史 (講談社選書メチエ 342)

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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