ハル=ノート
【概説】
1941年11月26日、日米交渉の最終盤においてアメリカ国務長官コーデル・ハルから日本の駐米大使へ手交された覚書(正式名称:合衆国及日本国間協定ノ基礎)。中国大陸および仏領インドシナからの日本軍の全面撤兵や、日独伊三国同盟の事実上の破棄などを要求する極めて強硬な内容であった。日本政府はこれをアメリカからの事実上の最後通牒と断定し、対米開戦の最終決断を下すこととなった。
日米交渉の行き詰まりと「甲案」「乙案」の提示
1941(昭和16)年、泥沼化する日中戦争を背景に、日本とアメリカの対立は修復困難な状況に陥っていた。同年7月、日本が南方進出の拠点として南部仏印進駐(現在のベトナム南部への軍隊進駐)を強行すると、アメリカはこれに強く反発し、在米日本資産の凍結ならびに対日石油全面禁輸という強力な経済制裁を発動した。石油の大部分をアメリカに依存していた日本にとって、これは国家の死活問題であった。
10月に成立した東條英機内閣は、御前会議において「11月下旬までに外交交渉がまとまらなければ開戦に踏み切る」という方針(帝国国策遂行要領)を決定した。日本側は交渉の最終的な打開策として、野村吉三郎・来栖三郎の両駐米大使を通じて、包括的な妥協案である「甲案」と、それが拒否された場合の暫定的な譲歩案である「乙案」をアメリカ側に提示し、事態の好転を図ろうとした。
アメリカ側の強硬姿勢と「ハル=ノート」の提示
アメリカ政府は、日本の暗号通信(パープル暗号)を解読する「マジック」によって、日本側が交渉期限を設けて焦燥していることや、乙案が日本の最終妥協案であることを完全に把握していた。アメリカ側も当初は、日本の乙案に対抗して数ヶ月間の現状維持を図る暫定協定案(モーダス・ヴィヴェンディ)を検討していた。しかし、この宥和的な動きに対して、日本と交戦中であった中国の蔣介石政権やイギリスが猛烈に反発した。
結果としてアメリカ政府は暫定協定の提示を断念し、日本に対する強硬姿勢を貫くことを決定した。1941年11月26日(日本時間27日)、国務長官コーデル・ハルは日本の両大使を国務省に呼び出し、アメリカ側の最終的な要求をまとめた長文の覚書を手渡した。これが後に「ハル=ノート」と呼ばれる歴史的文書である。
満州事変以降の大陸政策を全否定する要求
ハル=ノートの内容は、日本の従来の主張を一切顧みない過酷なものであった。主要な要求事項として、以下の点が挙げられる。
第一に、中国および仏領インドシナからの日本の警察・軍隊の全面撤退である。この「中国」に満州国が含まれるか否かについては明記されていなかったが、日本側は満州からの撤退も要求されたと解釈した。第二に、重慶の蔣介石政権(国民政府)以外のいかなる政権も支持しないことの確認であり、これは日本が樹立した南京の汪兆銘政権や満州国の否認を意味した。第三に、ヨーロッパ戦線に関するいかなる協定(実質的に日独伊三国同盟を指す)も、太平洋地域の平和維持に抵触するように解釈しないこと、すなわち同盟の死文化の要求であった。
これらの要求は、日本が満州事変以来10年間にわたって多大な犠牲を払って築き上げてきた大陸における既得権益と国家方針を、根本から全否定するものであった。
事実上の最後通牒と対米開戦への道
ハル=ノートを受け取った日本政府および軍部は激しい衝撃を受けた。東條英機首相や軍部首脳は、これを「アメリカ側はもはや日本と平和的に交渉する意思を持たず、屈服か戦争かの二者択一を迫ってきた」と解釈し、事実上の最後通牒(アルティメイタム)であると断定した。
ハル=ノートの提示により、日本国内で細々と模索されていた外交的解決への道は完全に絶たれた。12月1日、昭和天皇臨席の下で開かれた御前会議において、日本は対米英蘭開戦を正式に決定した。そして運命の1941年12月8日、日本海軍による真珠湾攻撃および陸軍のマレー半島上陸が実行され、太平洋戦争(大東亜戦争)の幕が切って落とされることとなる。ハル=ノートは、日米両国を破滅的な全面戦争へと引きずり込んだ最後の決定的な転換点として、日本近代史において極めて重要な意味を持つ史料である。