新東京国際空港(成田空港)

1978年、地元農民や新左翼などの過激な反対闘争の末に千葉県に開港し、羽田に代わって日本の主な国際線の拠点となった空港はどこか?
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重要度
★★

新東京国際空港(成田空港) (しんとうきょうこくさいくうこう(なりたくうこう)

1978年開港

【概説】
高度経済成長に伴う航空需要の増大に対応するため、1978年に千葉県成田市に開港した日本の新たな国際拠点空港。建設決定から開港に至るまで、国側の強権的な進め方に対して地元農民や新左翼活動家らによる激しい反対運動(三里塚闘争)が展開され、日本の戦後社会運動史に大きな禍根を残した。

羽田の限界と新空港計画の浮上

1960年代の高度経済成長期において、日本の国際航空需要は急速に拡大し、当時の日本の空の玄関口であった東京国際空港(羽田空港)は、近い将来に処理能力の限界を迎えることが確実視されていた。これを解決するため、時の佐藤栄作内閣は新たな国際空港の建設を模索する。いくつかの候補地を転々とした後、1966年に千葉県成田市三里塚周辺の宮内庁下総御料牧場を含む地域への建設が突如として閣議決定された。しかし、この決定は地元住民や農業従事者への事前の説明や合意形成が全く行われないまま、国が一方的に推し進めたものであった。

激化する「三里塚闘争」と混迷を極めた開港

突如として土地を奪われることになった農民たちは、強く反発し「三里塚・芝山連合空港反対同盟」を結成した。この運動には、当時のベトナム戦争反対運動などと結びついた新左翼の学生やセクト(党派)が「国家権力との対決」を掲げて支援に入り、反対運動は「三里塚闘争(成田闘争)」として急速に過激化・長期化していった。1971年の行政代執行による強制収用では、警察機動隊と反対派が激しく衝突し、警察官3名が殉職する東峰十字路事件などの惨事が発生した。その後も抵抗は続き、本来予定されていた開港直前の1978年3月には、過激派が管制塔に乱入して機器を破壊する「成田空港管制塔襲撃事件」が起き、開港が延期される事態となった。同年5月20日、厳重な警備のもとでようやく開港にこぎつけたものの、滑走路は1本のみという極めて限定的なスタートを余儀なくされた。

対話への転換と「成田国際空港」への歩み

開港後も、周辺での小競り合いや厳重な警備態勢は続き、旅客や地域社会への負担は重かった。しかし、1990年代に入ると、社会党の政権参画などの政治的情勢の変化や、歴史学者らによる「隅谷調査団」の仲介もあり、国側と反対派の一部による「成田空港問題シンポジウム」や「円卓会議」が開催された。ここで国(運輸省)側が過去の一方的な強権姿勢を公式に謝罪し、強制的手段を用いないことを確約したことで、長年にわたる対立は大きく緩和に向かった。この和解プロセスを経て、並行滑走路(B滑走路)の整備など、空港の機能拡張がようやく進展することとなった。その後、2004年には民営化(特殊会社化)され、正式名称も「成田国際空港」へと改称され、羽田空港の再国際化やLCC(格安航空会社)の台頭といった新たな環境変化に対応しながら、現在も日本を代表する空の玄関口として機能している。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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