三里塚闘争

新東京国際空港(成田空港)の建設予定地において、土地の接収に反発した地元農民が学生運動の過激派などと結びついて起こした激しい反対運動を何というか?
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重要度
★★

【参考リンク】
三里塚闘争(Wikipedia)

三里塚闘争 (さんりづかとうそう)

1966年〜

【概説】
千葉県成田市三里塚地区およびその周辺における、新東京国際空港(成田空港)の建設に反対する地元農民と支援活動家らによる大規模な住民闘争。国家による強権的な開発政策と、それに抵抗する民衆や新左翼セクトが激しく衝突し、戦後日本における最大の社会運動の一つとなった長期の紛争である。

国策の強行と反対同盟の結成

1960年代、日本の高度経済成長に伴い国際航空需要が急増したことを背景に、佐藤栄作内閣は新たな国際空港の建設を計画した。当初、政府は千葉県富里・八街付近を候補地としたが、地元住民の猛烈な反対運動に直面した。そこで政府は1966年7月、地元への事前説明や合意形成が全くないまま、宮内庁の下総御料牧場など広大な国有地が存在していた三里塚・芝山地区への空港建設を、突如として閣議決定した。

代々その地で農業を営んできた農民たちは、生存権と土地を守るために猛反発した。地元の地主や農民らはただちに「三里塚・芝山連合空港反対同盟」を結成し、戸村一作を代表に立てて組織的な反対運動を開始した。当初は陳情やデモといった平和的な手段が主流であったが、政府・空港公団(現・成田国際空港株式会社)が土地の強制収用を視野に入れた強硬姿勢を崩さなかったため、事態は長期的な泥沼化へと向かうこととなった。

新左翼の参入と「行政代執行」をめぐる激突

1960年代後半は、ベトナム戦争反対運動や日米安全保障条約改定阻止を叫ぶ「70年安保闘争」の時期と重なっていた。反国家・反権力を掲げる新左翼の学生やセクト(中核派、開放派、第四インターなど)は、国家権力と直接対峙する三里塚闘争を「革命の牙城」と位置づけ、現地に「団結小屋」を建設して反対同盟を支援した。これにより、素朴な農民の土地擁護運動は、国家権力打倒を目指す政治的・暴力的な運動へと変貌を遂げていく。

1971年、政府は土地収用法に基づき、反対派の土地や建物を強制的に収用する行政代執行を前後2回にわたり強行した。警察機動隊と、火炎瓶や竹槍、重機で武装した反対同盟・新左翼学生側との間で凄惨なゲリラ戦が展開された。特に第二次行政代執行の際におきた「東峰十字路事件」では、機動隊員3名が殺害されるなど、双方に多数の死傷者を出す惨事となった。この激しい衝突は、高度経済成長の影に隠れた国家による人権蹂躙の象徴として、社会に大きな衝撃を与えた。

遅れた開港と、公共事業のあり方への教訓

激しい抵抗を押し切る形で、1978年5月、新東京国際空港は開港へとこぎつけた。当初の開港予定(3月)の直前には、過激派が空港内に突入して管制塔を占拠・破壊する「成田空港管制塔占拠事件」が発生するなど、開港は泥沼の闘争の末の強行であった。また、開港後も滑走路の増設は反対派の土地所有によって阻まれ続け、当初計画された規模での完全開港には程遠い状態が続いた。

1990年代に入ると、社会党などの仲介により、国側(運輸省)が過去の強権的な土地収用について公式に謝罪し、対話による解決を模索する「成田シンポジウム」や「成田円卓会議」が開催された。これにより一部の農民グループとの和解が進み、闘争は沈静化に向かったが、現在でも一部の反対派農民による土地の明け渡し拒否や、強制執行をめぐる法廷闘争は継続している。

三里塚闘争は、国家が「国益」や「近代化」の名のもとに個人の権利を切り捨てることの限界を示した。この事件以降、日本の公共事業においては、住民との徹底的な合意形成(コンセンサス)を図るプロセスが不可欠であるという、極めて重い教訓が残されることとなった。

三里塚―成田闘争の記憶

激動の時代に翻弄された農民たちの記録と、抗争の歴史を刻み込んだ一冊。

成田空港秘話 三里塚闘争から「第2の開港」まで

長きにわたる成田闘争の全貌と、空港建設を巡る秘話に迫るドキュメントの書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

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