敏達天皇

高校日本史的重要度
★

【参考リンク】
敏達天皇(Wikipedia)

敏達天皇 (びだつてんのう)

538年?〜585年

【概説】
飛鳥時代前期に在位した第30代の天皇。欽明天皇期に伝来した仏教の受容をめぐり、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が激しく対立する過渡期において、国家の舵取りを担った人物。

蘇我・物部両氏の相克と敏達朝の立場

敏達天皇の治世(572年〜585年)は、前代の欽明天皇期に百済から仏教が公式に伝来(仏教公伝)したことを受け、新信仰である仏教を国教的に受容すべきか否かで朝廷が二分された緊迫の時代であった。大王家(天皇家)の姻戚として台頭し、渡来系技術集団を統率して仏教受容を進める大臣(おおおみ)の蘇我馬子に対し、軍事や神事を管掌し古来の神道信仰の堅持を訴える大連(おおむらじ)の物部守屋が激しく対立した。敏達天皇自身は伝統的な祭祀を重視し、仏教信奉に対しては終始慎重な姿勢を取り続けた。

疫病の流行と廃仏の断行

585年、日本国内で激しい疫病(天然痘と推測される)が流行し、多くの犠牲者が出た。物部守屋や中臣勝海らは「蘇我氏が蕃神(異国の神である仏)を祀り、国神をないがしろにしたための祟りである」と天皇に奏上した。これを受けた敏達天皇は仏法信奉の禁止を命じ、守屋らは蘇我氏の寺院を焼き払い、仏像を難波の堀江に投げ捨てるという苛烈な廃仏を断行した。しかしその後、天皇自身や守屋までもが疫病に罹患したため、天皇は馬子に対して私的な仏教信仰のみを許可し、同年に崩御した。この排他行動と対立の構図は、次代の用明天皇期を経て、587年の丁未の乱(物部氏の滅亡)へと直結していくこととなる。

最終更新:
2026年6月19日 @ 15:25

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