源為義
【概説】
平安時代後期の武将で、河内源氏の棟梁。前九年・後三年の役で活躍した源義家の孫にあたり、源義朝・源為朝らの父。保元の乱において崇徳上皇方に与して敗北し、敵対した実子・義朝の手によって処刑されるという悲劇的な最期を遂げた。
没落する河内源氏と為義の不遇
源為義は、武名を轟かせた「八幡太郎」源義家の孫として生まれた。しかし、彼の父である源義親が反乱を起こして討伐されたこと(源義親の乱)や、一族内での内紛が相次いだことで、為義が家督を継いだ頃の河内源氏は深刻な低迷期にあった。さらに為義自身も、郎党の狼藉などの不祥事を度々引き起こしたため、白河法皇や鳥羽法皇といった院権力からの信任を得ることができなかった。官位も検非違使や左衛門大尉などに留まり、富の源泉である受領(国司)に任じられることはなかった。同時期に伊勢平氏(平正盛・忠盛ら)が院の近臣として急速に台頭していったのとは対照的に、為義の生涯の大半は河内源氏の不遇の時代そのものであった。
摂関家への接近と一族の分裂
院の信任を得られなかった為義は、勢力を挽回するために摂関家、特に藤原忠実・頼長父子に接近し、彼らの家人として武力奉仕することで活路を見出そうとした。しかし、この方針は一族内に亀裂を生むこととなる。長男の源義朝は父のもとを離れて東国へ下り、相模国を拠点に独自の勢力を築き上げた。義朝は後に上洛して鳥羽法皇に接近し、父を差し置いて下野守に任じられるなど、院の近臣として地位を確立していく。こうして、摂関家に結びつく父・為義と、院権力に結びつく子・義朝という、河内源氏内部の深刻な分裂が決定的となった。また、八男の源為朝(鎮西八郎)も九州へ追放された先で暴れまわるなど、晩年の為義は一族を統制しきれない状態にあった。
保元の乱と骨肉の争い
1156年(保元元年)、鳥羽法皇の崩御を契機として、朝廷内の対立が武力衝突へと発展する保元の乱が勃発した。この政変において、為義は長年の主君である藤原頼長の要請を受け、崇徳上皇方に与した。為義のもとには、九州から呼び戻された為朝ら彼の子息たちも集結した。一方、長男の義朝は平清盛らとともに後白河天皇方として参戦した。ここに、天皇家や摂関家における権力闘争に巻き込まれる形で、武士の家門内部における骨肉の争いが展開されることとなった。戦闘は、義朝の献策による夜襲が成功して天皇方が勝利を収め、崇徳上皇方は総崩れとなった。
悲劇的な最期と歴史的意義
敗軍の将となった為義は、息子・義朝の陣頭に降伏した。義朝は自らの戦功と引き換えに父の助命を激しく嘆願したが、後白河天皇や信西(藤原通憲)ら朝廷側はこれを許さず、死刑の執行を命じた。最終的に義朝は、一族の存続と朝廷の命令への服従を示すため、自らの手で父・為義と弟たちを斬首するという苦渋の決断を下した。
為義の死は、薬子の変(810年)以来、長らく停止されていた中央における死刑の復活を象徴する出来事であり、武士の力が政治の帰趨を決する時代の幕開けを告げるものであった。同時に、彼の死をもって旧来の摂関家に依存した河内源氏の体制は完全に崩壊し、権力闘争を生き残った義朝、そしてその子である源頼朝へと源氏の正流が受け継がれていく歴史的な転換点となったのである。