源為朝 (みなもとのためとも)
【概説】
平安時代末期の源氏一門の武将。源為義の八男であり、源頼朝や源義経の叔父にあたる人物。身長が2メートルを超える巨漢で、規格外の強弓の使い手として名を馳せ、保元の乱では崇徳上皇方の主力として凄まじい武勇を示した。
「鎮西八郎」としての台頭と圧倒的な武勇
源為朝は源氏の棟梁である源為義の八男として生まれた。幼少期から粗暴で手に負えず、13歳の時に父・為義によって九州(鎮西)へと追放された。しかし為朝は現地で大人しくするどころか、自ら「鎮西八郎」を称して肥後国の阿蘇忠景らを臣従させ、またたく間に九州全域を武力で平定してしまった。この勝手な振る舞いは朝廷でも問題視され、父の為義が実子の不祥事の責任を問われて解官される事態に発展した。為朝の武力は、当時の院政期において中央の統制が地方に及びにくくなっていた大武士団の台頭と、それに伴う治安悪化の状況を象徴している。
保元の乱における奮戦と武士の限界
1156年、鳥羽法皇の崩御を契機に天皇方と上皇方の対立が表面化し、保元の乱が勃発する。為朝は父・為義とともに崇徳上皇・藤原頼長方に参陣した。この時、兄である源義朝や平清盛らは後白河天皇方に味方しており、河内源氏の一族は敵味方に分裂して戦うこととなった。為朝は夜襲による先制攻撃を提案したが、公家である頼長に却下され、防衛戦を余儀なくされる。戦闘が始まると、為朝はその無双の強弓をもって天皇方の武士たちを射すくめ、兄・義朝の軍勢や平清盛の軍勢を大いに震撼させた。しかし、天皇方の火計によって本陣である白河北殿が炎上すると上皇方は敗北し、為朝の奮戦も虚しく敗戦へと追い込まれた。
伊豆流刑と後世に開花した「為朝伝説」
敗れた為朝は逃亡したものの近江国で捕らえられた。本来ならば死罪に値したが、朝廷はその類稀なる武勇を惜しみ、弓が引けないように肘の腱を切った上で伊豆大島への流罪に処した。流刑地でも為朝の武勇は衰えず、伊豆諸島を支配下に置いて事実上の独立王国を築いたとされる。これを危惧した朝廷が1170年に追討軍を派遣すると、為朝は抵抗の末に自害した。これが日本史上における「武士の切腹」の先駆けとも言われている。後世、為朝の伝説は肥大化し、琉球(沖縄)に逃れて初代琉球王・舜天の父になったという「為朝渡海伝説」が誕生した。江戸時代には曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』の主人公として描かれ、為朝は「強すぎる悲劇の武将」のアイコンとして庶民の間で長く愛されることとなった。