士族民権 (しぞくみんけん)
【概説】
明治初期の自由民権運動において、特権を失った不平士族が中心となって展開した初期の政治運動。武力抗争ではなく、言論によって藩閥政府を批判し、国会開設などを求めた。のちに地方の有志や豪農層が主導する「豪農民権」へと発展する前段階にあたる。
「明治六年の政変」と士族民権の胎動
1873(明治6)年、征韓論争に敗れた板垣退助や西郷隆盛らが下野した明治六年の政変を契機として、明治政府に対する不満が噴出した。翌1874年、板垣や後藤象二郎らは愛国公党を結成し、政府に対して民撰議院設立建白書を提出した。これが自由民権運動の端緒とされる。
板垣らは故郷の高知に帰り、政治結社である立志社を設立。これを模範として、全国各地に士族を中心とする政治結社が誕生した。彼らは「有司専制(一部の薩長藩閥による専制政治)」を批判し、人民の権利伸長や国会の開設を求めた。これが「士族民権」と呼ばれる運動の始まりである。
「言論」と「武力」の狭間に立つ不平士族
同時代の明治政府は、地租改正や徴兵令、さらには家禄を全廃する秩禄処分や廃刀令を断行し、士族の特権を次々と剥奪していった。これに対し、没落する士族たちの反発は凄まじく、佐賀の乱や秋月の乱、萩の乱といった武力反乱が各地で頻発した。士族民権は、これら「武力による政府転覆」を企てた不平士族とは一線を画し、「言論による政府改革」を目指したグループであった。
しかし、その根底にあるのは「士族の復権」や「士族授産(生活救済)」といった、旧特権階級としての利害関係でもあった。そのため、1877(明治10)年に士族反乱の最大かつ最後のものである西南戦争が勃発すると、立志社の中からもこれに呼応しようとする動き(立志社の獄)が生じるなど、言論活動と武力闘争は表裏一体の側面を持っていた。同年に立志社が天皇に提出した立志社建白は、政府の失政を鋭く追及し、民権運動の記念碑的文書となったが、これも西南戦争という武力衝突の緊張感の中で行われた政治闘争であった。
運動の限界と「豪農民権」への発展
西南戦争が政府軍の勝利に終わり、武力による政府転覆が不可能であることが証明されると、運動の主潮流は完全に言論闘争へと移行した。しかし、士族民権は「士族」という特定の身分階級の論理に依拠していたため、一般民衆を巻き込んだ広範な国民運動へと発展するには限界があった。初期の士族民権が掲げた主権論も、多分に制限選挙を前提としたエリート主義的なものであった。
その後、地租改正への反対闘争などを経て、運動の主体は地方の地主や富裕な農民層(豪農層)へと移り変わっていく。これが豪農民権と呼ばれる段階である。士族民権は、没落士族の不満を近代的な「民権」という政治思想へ昇華させ、その後の国民的な自由民権運動の土台を築いたという点において、歴史的に大きな意義を持っている。